強気な答弁というのは、いまや政治家としての高市早苗首相のスタイルとして捉えられているようだが、ある意味、それとは対照的に政権や自身が追い込まれた局面に至ると、彼女は決まって同じ趣旨の言葉を口にする印象がある。
「国会でお決めになること」。サナエトークン問題での公設秘書の参考人招致や、不祥事で辞任した簗前農水相の国会招致で、追及が自身や足元に及んだ瞬間、行政の長としての主張はスッと影を潜め、「三権分立」と「国会の自律権」という巨大な防波堤の陰に退避する。歴代政権・政権与党が野党の追及をかわす際の伝統的な定型答弁ともいえるが、高市首相は、決定的な防御癖として多用しているようにとれ、その違和感は際立っている。
違和感の正体は明らかだ。一つは、突然の主体の不在・消失。答弁のリスクが高い局面に至った瞬間に、急に「国会の自律権」が持ち出され、強きのはずの当事者としての判断が退く。簗大臣問題で首相は、本人に国会議員の前で説明責任を果すように促したと述べ、その必要性の認識は示しながら、招致そのものへの考えは述べない。公選法違反についても、関係当局が判断すべきで、自分が予断を持って判断することはできない、とする。判断の主体を、次々と自分以外に投げる。
「国会の自律権」を、自らの政治責任が問われる場で、最高責任者が使う。「招致して説明するべきと思う」と自分の考えを述べることは、他の自律権、決定権を侵すと直ちにいえるだろうか。「国会の自律権」尊重が、都合が悪い時に現れているようにとれてしまう。批判を浴びた6月22日の、秘書の陳述書で答弁に変える案の提案で、首相は自らの意思を示していることもあった。もっともこの苦し紛れの答弁が、のちに問題化したことで、これも彼女には後向きの教訓となったかもしれないが。
「呼ばれれば誠実に答弁する」という言い方も登場するが、呼ぶかどうかを決める場は、首相が総裁を務める与党が多数を占める。首相は安心して、逃げが打てる前提がある。条件の成否を自分の側が握る約束は、守る機会が来ないことを織り込んだ約束と取られても仕方ない。
もう一つは、彼女に後ろめたさを感じないことだ。「捜査中」「記憶にない」という答弁回避論法は、聞く側にもより回避の意図が伝わると同時に、どこが言う側のうしろめたさもあった。高市首相の答弁には、それが感じられない。正論の顔をして堂々と言う。仮にそれを正当な作法として信じているのならば、認識の問題であり、回避と分かったうえでやっているのなら、一国の首相・政治家としての姿勢の問題である。「逃げ」ととられることをどう思うのかを問いたくなるが、それも認識か確信的な姿勢かで答えは変わるようにも思うが、いずれも適格性の問題にはなり得る。
さらに、付け加えるべきは、一応、それが通用しているように見えることである。これが成立するためには、受け手の側も条件を満たしている必要がある。メディアは気付いていないわけがないが、せいぜいお決まりのように「国会軽視」と書く程度にとどまる。支持層には、「決めるのは国会」が正論に聞こえて終わりである。
内閣支持率は下降フェーズに入っているようにもとれるが、各社調査では未だ5割程度の固い支持層が残るようにもとれる。仮に支持層が離れない限りリスクも小さいという計算が働いているのならば、国会を国民全体への説明の場としては考えておらず、彼女の視線の先には、支持者しかないことになる。もちろん、通用すれば前例となる。
不気味な違和感の正体は、高市首相個人の資質の問題だけではない。主体が消えた答弁が、そのまま問われることなく通る現実。その状況を私たちの側が許している。「国会で決めること」と言われたときに、「あくまであなたはどう考えるのか」と問い返せるか。その問いを、今、報道も、野党も、私たちも決して手放さないという認識に改めて立つ必要はないだろうか。