高市内閣の支持率は、これまでの政権とは顕著に異なり、調査によって大きくその表情が違う。例えば最近の時事通信の調査では過去最低を更新し、下落は4カ月連続で下降フェーズを印象付けるが、日経・テレ東の調査では62%と、前月から横ばいである。
ここで注目したいのは、支持の中身である。日経・テレ東の調査で支持理由の上位に来たのは、「人柄への信頼」と「指導力」で、政策の良さはこれに続いていた。しかも、政治資金の不記載があった旧安倍派議員2人の入閣を「適切でない」とした人は、6割を超えている。個別の厳しい評価は存在しながら、支持率に響かない。評価と支持が切れている印象すらある。
この顕著なちぐはぐさ、評価と支持の断絶は、もはや高市政権の特徴のように思える。しかし、むしろこれは多数派大衆の期待の変化あるいは変質が生み出しているようにもとれる。期待そのものが、政策の実現から「決めてやり抜く人」へ縮んでいる現実ではないだろうか。
大衆の中にある失望の記憶は、民主党政権だけのものではない。政権選択への期待を裏切られた後、自民党政権にあても岸田政権の「聞く力」、石破政権の「誠実さ」に期待は向けられ、大衆はその都度失望した。「今度こそ」という思いが外れる度に、期待の間口は狭まっていく。そして聞いてくれる人、誠実な人では足りなかったという経験。その先に求めたものは、調整型よりも突破型であり、それにふさわしい「人柄」と「指導力」だった。調整型への失望の反動ということもできるかもしれない。
嫌な言い方をすると、「何かしてくれそう」という漠然とした期待は、政権にとっても大衆にとっても、都合のいい形式として存在してしまう。中身が具体化していないほどに検証されにくい。検証されなければ、「裏切られた」という確認も、決定的失望も生まない。細部を問わなければ、期待は期待として温存される。あたかも失望を繰り返した後の期待が、失望を先送りするように維持されているような。
個別の政策や人事への厳しい評価がありながら、支持という総体に集約・反映されず、「いや、それでも」となるのは、それらに目をつぶっても、手放せない、これまでの失望に裏打ちされた「期待」にしがみついてしまうからではないか。
高市首相の姿勢は、この状況を見切っているかのように噛み合っている。国会での説明を避け、批判を受けても責任取る形を示さないで済ませる姿勢は、この検証を求めない「期待」の上に成り立ってしまう。かつては、説明責任で追い込まれた政治家は、「禊」という形でけじめをつける、いわば「作法」も存在し、それが追い込む力の空白を埋めていた面もあった。今は、その「作法」は消え、代わりに空白を埋めているのが、失望と、縮小された期待という大衆側の事情なのではないか(「高市首相『反省点ない』発言から見えたもの」)。
説明しないことは咎められず、咎められないから説明をしない。権力側の脱禊化と大衆側の期待の縮小が、互いを支え合ってしまう。悪しきもたれ合いというしかない構図である。
もっとも「何かしてくれそう」という、具体的な中身は薄くとも積極的な期待と、「他に適当な人がいないから」という消極的な支持は、本来は別のものということもできる。人柄や指導力を挙げた人が、いつまでも政策に厳しい目線を向けないともいえない。漠然とした期待感はいつまでもこのままではなく、賃上げにしても物価の安定にしても、外交にしても、具体的な成果が伴わなければ、ある日、一転、激しい失望とともに、もたれあいの構図も瓦解するかもしれない。
しかし、瓦解は終りではなく、次の漠然とした期待感の始まりに過ぎないかもしれない。激しい失望の先が検証ではなく、確かな選択肢も見当たらなければ、もたれあいの反省ではなく、さらに強い言葉と、手っ取り早い突破への渇望に姿を変えるかもしれない。そうなるならば、同じことが繰り返されるだけである。