2009年に始まった裁判員制度は、マスコミから流された大量の情報で、国民の間で、制度自体は認知され、また「国民の司法参加」という制度の意義についても、情報としては、社会に広がった印象があります。ただ、本当にこの制度を必要なのかについては見方が分かれます。裁判に国民の意思を反映させるという見方、これまでの問題のある司法を国民の力で変えるきっかけになるという見方、これまでの専門家にお任せの国民の意識に問題があったという考え方などが、この制度を推進する側にあるのに対し、この制度が国家による国民の同意が必ずしも得られていない新たな「強制」であること、裁きたくない思想信条の自由が認められていないこと、問題のある司法に国民が「お墨付き」を与える形になることなどが反対する側にあります。司法に税金を投入している以上、専門家に司法をゆだねることを当然とみる意識もありますが、期待推進派のマスコミ論調に触れている国民にフェアな判断材料が与えられていない面もあります。裁く立場ではなく、裁かれる立場に立った時、この国の市民は市民の裁判と専門家の裁判、本当はどちらを選びたいのか、そうした問いかけもなされません。この国民負担は本当に必要だと思いますか。制度の意義、問題性、さらにこれから制度をどうするべきかを含め、市民、法曹関係者の方の意見を広く求めます。(最大800字以内、匿名可。所属・職業〈弁護士・司法書士は所属会〉明記を希望します)
検察の懲役10年の求刑に対し、裁判員裁判で懲役15年の判決が出たことに驚愕。「市民感覚」を取り入れるというのが裁判員制度の謳い文句であったが、一般市民の間には、凶悪犯罪は一貫して減少しているにも関わらず、もっと厳罰を、もっと厳罰をと厳罰主義が横行しているのが現状である。しかも、法律知識のない裁判員は3人の裁判官にいいようにあしらわれる。その裁判官はといえば、最高裁事務総局を頂点とする、ヒエラルキーの下、人事で完全に支配されており、行政追認判決を拒否することや、無罪判決を出すことには極めて消極的になっており、憲法判断についても司法消極主義に陥っている。要するに、現在の下級審判事のほとんどがいわゆるヒラメ判事であるといって間違いない。『人が人を裁くということ』小出敏晶著(岩波新書)にはこう書いてある。「日本の裁判員制度の合議体構成は、ナチス・ドイツ支配下のヴィシー傀儡政権が厳罰化を目的に導入したフランス参審制と酷似する。新制度によって市民の意見を反映させると法務省は宣伝する。しかし、フランス近代史上、市民の影響力をもっとも抑えた制度と、日本の裁判員制度は同じ構成になっている」。
2017年8月31日 4:11 PM | 林健二
理由もなにも………何年も学び経験していても難しいのが裁きの場に関わるということでありましょう。専門外のものが専門性を持つ分野に口を挟むべきではない。血のにじむような努力をして証拠を集めたり、様々な切り口で再審をするという覚悟と自信があるならばそのヒトが名乗りを上げて認める機関があってはじめて推進されるべきで。(本来ならそれも無し!あり得ないと思っております。)はじめて人を裁いてからその後の人生がかわったという記事をみるにつけ、なんて鈍感な感性なのだろうと思う限りです。
2016年7月2日 12:59 PM | MK
昨日の判決を見ると、最高裁にこそ裁判員が必要だと思います。
2015年2月5日 10:08 PM | 匿名希望
有用なコメントありがとうございます。
廣野秀樹
http://hirono2012c.blogspot.jp/2012/05/blog-post.html
一部、自分のブログにて引用させて頂きました。
2012年5月11日 10:07 AM | 廣野秀樹
財政が逼迫している日本において,贅沢そのもの
匿名弁護士(東京)
財政が逼迫している日本において,
他の支出を削って,こんな裁判ゴッコのために
多額の予算が使われていること自体,滑稽です。
貧困国がおままごとをするには,随分と贅沢なおもちゃです。
問答無用で仕分けすべきでしょう。
財政的な視点から見たら,それ以外の選択肢はない。
2012年4月18日 1:00 PM | 匿名弁護士(東京)
単なる税金の無駄遣いです。
坂本隆志(東京弁護士会)
国民の司法参加と言ったって,裁判官の立場から問題のある判決が出されたときには上訴審で覆されるわけだから,裁判員制度は「国民を司法に参加させている」という裁判所のアリバイ作りに利用されているだけ。おまけに,裁判員用の諸設備や裁判員制度の広告といった名目で予算も分捕れるので,裁判所としては割とおいしい制度かも知れないが,国益全体としては税金の無駄遣いをしているだけ。
なお,単に「裁判員制度が利用されなくなることを防ぐ」だけの目的で,裁かれる立場の人に裁判員裁判を利用するか否かの選択権を認めていないのは制度開始当初からの問題であるが,性犯罪事件などで被害者が裁判員による裁判を望まない場合,本来は強姦致傷罪に該当する事件であっても,裁判員裁判になることを避けるため敢えて強姦罪で起訴されているという実態がある。裁判員制度の「強制」は,実はマスコミの眼にも触れない社会的弱者の人権を蹂躙しているのである。
2012年1月16日 5:54 PM | 坂本隆志(東京弁護士会)
「かすかな希望の光」だと思っています
杉山博亮(東京弁護士会)
裁判員制度に賛成です。
最善かどうかはともかく、実現してよかったと思っています。
裁判員制度が導入される前、私は、東弁のある委員会でこの制度の検討をしました。当時、私はこの制度に対して懐疑的でした。
まだ、それほど多くは刑事事件をやっていなかったころのことです。当時は、同じ法曹である裁判官や検察官に対して、まだ一定の信頼感を抱いていました。
その後、私は、刑事事件を多く扱うようになりました。そして、裁判官や検察官という存在に対して、甚だしい不信感を抱くようになりました。司法修習生のころ、あんなに輝かしく有能な大先輩に見えた裁判官や検察官に対して、です。
刑事裁判において、弁護人の主張・立証など「荒野に向かって叫ぶ」に等しい、と感じています。
正直なところ、刑事裁判官や検察官には、一度全員やめてもらって、弁護士から任官してほしいと考えています。
弁護士に成り立てのころ、会合で顔を合わす大先輩のおじいちゃん弁護士たちが「法曹一元」と熱く語っていた意味を、最近噛みしめています。
裁判官には無理でも、裁判員になら、まだ声が届く可能性があるのではないか。これが私の一縷の望みです。
私自身は、裁判員裁判で、まだよい結果をもらっていません。ただ、裁判員の方々は極めてまじめだと感じています。
この制度の導入が決まったころから、裁判傍聴をする人の数は目に見えて増えました。みんなまじめだなと思います。そして高い意識をもっていることに感心します。
だから、期待しています。少なくとも、真実を見抜こうという目で事実認定に臨んでくれると思えます。量刑理論だって、かみ砕いて説明するなら、理解しようとしてくれるでしょう。
裁判官に対しては、私は、もはやそんな期待すらできなってしまいました。裁判官がどんな人たちか。それを国民が知るだけでも、意味があります。
2011年10月1日 4:04 AM | 杉山博亮(東京弁護士会)
設問自体に問題がある。
吉田孝夫(宮崎県弁護士会)
裁判員制度は必要か必要でないかという設問自体が誤っていると思います。
しかし、この設問に沿って考えるとすれば、裁判員制度を定める「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」に何が書いてあるのかというところから見ていかなくてはならないでしょう。
そこには、裁判員によって刑事裁判を良くするとか、冤罪を防止するというようなことは書いてありません。
第1条には裁判員制度の趣旨として、国民の中から選ばれた裁判員が裁判官と共に刑事裁判に関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資すると書いてあるだけです。
つまり、これは国が、刑事裁判に対する国民の理解と信頼を増大させる目的で設けたもので、国民は制度を求める主体ではなく、国の行う宣伝の対象に過ぎないのです。
司法制度改革審議会(司法審)や、その後の司法制度改革推進本部の検討会で裁判員制度が議論されていた時、日弁連では、刑事司法に関して、代用監獄の廃止、人質司法をやめる、取調べ過程の全面可視化、伝聞法則の徹底などを要望していましたが、そのような刑事司法制度の改善に関する要望はことごとく排斥され、現行の裁判員制度ができました。
本当に裁判を良くしようと思うなら、例えば、伝聞法則等の証拠法則は、陪審制度を実施してきた英米で、誤判防止のために発達してきた法則ですが、日本では、素人ではなく訓練を積んだ裁判官が事実認定を行うという理由で、非常にルーズに立法、解釈、運用が行われてきたので、陪審制度を採用する前提として、証拠法則の厳格化が必要になります。
素人が参加する裁判員制度でも、証拠法則は厳格化されていません。裁判官も弁護士も検察官も、ルーズな証拠法則に馴れ親しんでいる状態です。
裁判員制度が参審制と陪審制の短所を掛け合わせたものだという点を別にしても、問題だらけです。
2011年9月10日 4:32 PM | 吉田孝夫(宮崎県弁護士会)
裁判員制でなく陪審制にすべきと思います。
bakudream
日本の司法は閉鎖性すぎます。前田検事の証拠捏造や警察官による強要脅迫による冤罪の製造など民主主義国、法治国家とは思われない事件が起きています。ネット、SNSの普及で今まで市民の目に触れることのなかった政治や行政に携わる人々の目を疑う堕落、腐敗の構図が公開され普通の市民の目に触れるようになりました。
政、官、学、業のトップクラスに住む人々の感覚は市民感覚と相当ズレています。判事、検事などはその代表でしょう。いわばオーム教の教祖と何ら変わりません。
昔米国のジャーナリストで日本社会は小さなオーム教が無数に集まった社会だと評した記事を見たことがあります。
社会人なら社会、国の政治に責任と義務があります。政治、行政(司法行政含む)に普通の市民がもっともっと参加できる社会を作ることが日本人が社会人としての見識を高めたり社会人としての責任感を持つようになるためにも大事だと思います。官僚の都合のいいように黙々と馬車馬のように黙って働いて税金を納めることが社会人の義務ではありません。次代を創る子供たちの明るい未来の為にどんな社会を作るか、その為に政治、行政(司法含む)をどうすべきかを考え実行していく必要があります。
日本人も議員や役人を尊敬しているわけではない。腹の中では決して信用していない。ただ何かを言っても実行されないことを承知している。だから黙っているだけです。そんなことより自分と家族の衣食住の糧を得ることに必死なのです。
それほど日本で生きていくための生活環境は過酷なのです。それは政治行政(司法含む)が一部の政治屋、役人、大学教授や知識人と謂われる人達に任せてきたため彼らが自分たちに都合の良い制度を作って国民を食い物にしてきた制度の為です。これらの制度を改めるためにも国民が一人でも多く政治行政(司法)に参加する機会を作り実践していく必要があります。
2011年9月3日 3:41 PM | bakudream
司法改革に本当に必要なこと
匿名
裁判員裁判の裁判員になった人は「良かった」という意見が多いようだが、果たしてそれが司法の「改革」だったのか疑問だ。国民の大多数は今でも司法に無関心だし、一審で下された判決も上級審ではあっさり覆される。誤審が明らかになっても最高裁裁判官は何の責任も取らないし良心の呵責を感じた風も無い。最高裁以外の裁判官も同じで、要は司法官僚としか自分を位置づけていない。本当に裁判員が関与すべきは憲法判断だと思う。現行の重要刑事事件限定の裁判員裁判制度では専門的知識を持たない裁判員が、本当に裁判官以上の慎重な判断を下せるか疑問だ。今まで明らかになった誤審の原因を謙虚に見つめるなら、裁判官のあり方を変えることこそが「司法改革」の中心ではないか。今はまだ始まって間もないから裁判員裁判の欠点もあまり出てきていないが、法の素人が感情に引きずられて間違った判断を下したとき、それにストップをかけられない惧れが時間が経つにつれ多くなると思う。しかもその時は誰も批判できなくなっているだろう。それは、肝心の裁判官のあり方が全然変わっていないからだ、最低でも尋問過程の完全可視化がされてからでなければ裁判員裁判は導入すべきでなかった。
国民を司法に参加させるなら、裁判過程は立証過程も含め透明なものでなければ却って闇の中の裁判になる。検察審査会が全く闇の中で検察よりも検察を代弁する結論を出し、その過程も、全く明らかにされない事実(実質上最高裁がその権力を振るって国民の誰もが口出しできない制度になっている。)こそが司法の闇ではないだろうか。裁判官は善であるという前提がまず間違っている。国民の感覚から遠く離れた判決を次々出し、今も出し続けている最高裁を制度的に改革しない限り何等解決しないし、「国民に近くなった」と錯覚させるだけ有害な制度だと思う。
2011年8月23日 8:57 PM | 匿名
結局は,裁判員制度利権が存在したということ
匿名弁護士(東京)
裁判員制度の導入に際して得をしたのは,以下の方々。
・広告代理店(制度周知の利権大。予算消化でゆるキャラ作り)
・マスコミ(導入前後の時期のニュースバリューを最大限に利用)
・電気屋(シャープにパナソニック…,あんなモニタ,必要?)
・土建屋(ほかの部屋は小汚いのに,裁判員法廷だけご立派に)
ほかにもいるでしょ。誰か挙げて下さい。
いずれも,自称・人権派弁護士よりもはるかに大人で
世の中の仕組みを分かっている業界の方々。
戦略も戦術も,一枚も二枚も上手。
弁護士風情じゃ,かないっこないですなあ。
2011年5月26日 10:08 AM | 匿名弁護士(東京)
多数決?
某弁護士
裁判員裁判の経験はないです。
実体験に基づかない話ですいません。
理屈から考えて、この制度には疑問があります。
憲法の理念では、立法府が多数決で民意を反映し、行政府もその多数派の意思により選出されます。
それに対して、少数者の人権の砦となるのが司法権でと昔、習いました。
その少数者の人権の砦に多数決を持ち込むことは、社会全体を常に多数派の意見が支配することになるのではないかという気がしてなりません。
現在は、刑事事件1審だけですが、今後、この制度が拡大していかないことを望みます。
2011年5月25日 7:30 AM | 某弁護士
被告人勾留が長すぎる
弁護士 向原栄大朗
先日、担当していた裁判員裁判が判決言渡しに至り、終了しました。
これで2件目ですが、国選選任されてから1年(主任は当番(=逮捕)から数えて1年2ヶ月)。
あまりにも長すぎます。
この事件は、追起訴が繰り返されたため延びたのも事実ですが、それを差し引いても長すぎた。追起訴が延びた理由のひとつに検察側の裁判員事件への対応が慎重なこともあると感じられましたし、裁判員法廷がなかなか空かないということもありました。
被告人の心理としては、被告人勾留が長引くことは、いたずらに不安をあおるだけです。
2011年5月21日 8:58 AM | 弁護士 向原栄大朗
不要(費用対効果が悪すぎる)
匿名弁護士(東京)
「裁判に市民の声を反映させる」というのは,
一見,耳障りが良いスローガンだが,
あまりにも費用対効果が悪すぎる。
裁判員制度の運用のために多額の費用が支払われ,
弁護士が,わずかな国選弁護費用のみ受給され,
大赤字で,手弁当で,重大事件の弁護を強いられるというのは,
本末転倒ではないのか。
「裁判に市民の声を反映させる」方法は,他にいくらでもある。
本来,情報公開の工夫や公正平等な報道によって
実現させるべきものである。
いや,必ずしも,市民の声を反映させるべきものでもあるまい。
思考訓練を経ていない者による裁判は,私的制裁にほかならない。
いずれにせよ,
これからますます財政が逼迫し,沈み行くこの国にとって,
裁判員制度は,過分に贅沢な制度と指摘せざるをえない。
2011年5月17日 4:04 PM | 匿名弁護士(東京)
大切なのは
弁護士Y
裁判員に参加した市民にとってプラスであるかではなく,司法制度にとって有益かでしょう。
要するに,裁判に市民感覚を入れることについての意義,たとえば事実認定及び量刑の一般感覚との適合性などです。
私は,市民感覚では量刑はともかく事実認定にはかなりの危険があると思います。
なぜなら,職業裁判官であれば気づくはずの事実を見逃す危険性があるからです。
もっとも,裁判官は出世のために事実認定を曲げているのではないかと思わせるようなものがあります。本当に疑わしきは被告人のためにという利益原則を守っているのかと。
裁判員はこの原則を裁判官に見直させる機会を与えたという意味では評価できます。この結果は制度の副産物にすぎませんけど。
ごちゃごちゃと書いてしまいましたが,結論としてはやはり賛否両論あるといったところでしょうか。
歯切れの悪い結論で申し訳ありませんが,もう少し考える時間をいただければと思います。
2011年5月4日 12:42 AM | 弁護士Y
裁判員制度は不要
弁護士 向原栄大朗
http://ameblo.jp/mukoyan-harrier-law/entry-10510848191.html
に記載の点から、完全に反対です。
「私の感覚」が、判断のどの過程で反映されるのか明確にされていないのはおそろしすぎます。裁判のブラックボックス化を招きます。
また、実際に担当してみて思うのは、結局のところ、公判前整理でかなりの部分が決まってしまい、裁判員が出てくる公判はセレモニーにすぎないということです。
そもそもの目的がまったく不明であること。やる意味はないと思います。有害無益な制度です
2011年5月3日 3:38 PM | 弁護士 向原栄大朗
経験してみて想うこと
匿名 経験者
私は裁判員を経験してきました。
この制度が必要か?必要でないか?
経験してみて分からなくなりました。
私も考えたことがありました。
「どんな人達が裁判員に選ばれるかは分からない、なかには面白半分のような感覚の人も選ばれる可能性があり、それが本当に被告や被害者にとって
平等なのか?」そんな思いのなか私は裁判員に選ばれました。
しかし私の経験した裁判の中(裁判員の最終選考も含む)には
誰一人として無責任な人はいなかったと感じています。
一緒に裁判を行った人達も一人一人が真剣に自分の置かれている現実に
向き合い、想いや考えを出し合い、討論をし、答えを導き出しました。
その日に知り合ったばかりの人達と自己紹介もないままに(お互い番号で呼び合います。)、赤の他人の人生を真剣に考え話合う。
それは初めて経験することでしたし、この先も普通の生活のなかではまずないことでしょう。
本当に貴重な経験をしたと感じています。
その経験をしたうえで答えさせていただけるのなら。
裁判員制度で出た判決でもそうでなくても、被告や関係者にとって
平等な判決であると信じたい。
私はそうであったほしいと思います。
ただ、裁判の内容がどんな内容であったとしても裁判員に選ばれた人達には
少なからずストレスがかかるのも事実です。
被告がどんな罪を犯していたとしても、私達が人ひとりの人生を大きく左右させるであろう判決を下さなければならないというのは、あまりにも荷が重いことです。
ですから、この制度が必要か?必要でないか?の答えは私には出せない、というのが結論です。
2011年5月2日 10:34 PM | 匿名 経験者
どちらでもよい
匿名 玉下駄
基本的に裁判員制度に関しては、選ばれた方々の参加希望者のみが出席とする形をとるべきかと。
無理やりでたくなくない人を引っ張りだし、適当な裁きをされてもこの世のためにはならない。
ただ、仮にだが、一般的な常識のある人たちの回答がえられることを考慮すると裁判員制度というのは付加価値がありそうなきもする。専門家たちとは、違う意見を聞けるかもしれないメリットは大きいだろう。
ただ、一度冷静に考えてみよう。赤の他人のために神経すり減らして判断できるだろうか?よほどの残虐な事件であれば別だが。
ただ、国が決めた強制であるなら、それに従うしかなかろうと。
よって、私の回答はどちらでもよいとした。
結論から言うと、賛否両論にわかれる。
2011年5月2日 5:40 PM | 匿名 玉下駄
なぜ強制?
一市民
なぜ裁判員になることを強制することになったのですか。この点で、国民の意見は問われたのでしょうか。裁く気がない人間に裁かせることが、裁判にとってよいこととも思えません。また、国民がそんな人間に裁かれたいとも思いません。この点を、だれか専門家の方、明確に教えて下さい。
2011年4月30日 10:30 PM | 一市民
裁判官への怒り
匿名 主婦
ある時突然、裁判員制度について報道が始まった。
報道では、半分以上の人が反対していた。
だからこれは流れるだろうと、楽観視していた。
のに!
なぜ始まったのか?
この件に関してトップの人は誰ですか?
なぜ始まる時に国民に頭を下げてお願いし、明確な趣旨を説明しないのでしょうか?
説明ができないとしか思えない。
周りにも賛成してる人なんて一人もいない、賛成意見も聞いてみたいもんだ。
裁判官は、自分でその職業を選択したのに、なぜしたくもない事を強制的にさせられるのでしょうか?
どなたか賛成の方、説明していただけますか。
2011年4月30日 8:23 PM | 匿名 主婦