1 今市事件として知られる小1女児殺害事件につき、2016年4月8日、宇都宮地裁で判決が出された。その公判では、被告人の捜査段階での録音・録画記録媒体が取り調べられた。報道等によると、裁判員はこの記録媒体を見なければ判断できなかったということである。判決書も、客観的事実のみからは被告人(注1)の犯人性を認定することはできないとしながら、記録媒体を根拠に自白の価値を重く見て有罪としている。
この事件も大きな契機の一つとなって、記録媒体はどのように使用されるべきかが大きく議論されるようになっている。
そこで、以下では、法律論となって七面倒くさい議論とはなるが、広く多くの方々に問題点を知っていただきたく、若干の解説を試みたい。
なお、本稿は、ある団体の機関紙に載せた小論を基礎にしている。
(注1) 起訴前の容疑者を「被疑者」、起訴後はこれを「被告人」と呼ぶ。なお、民事事件では訴える側を「原告」、訴えられる側を「被告」と呼ぶ。「被告人」は刑事事件の、「被告」は民事事件の呼称である。
2 2016年の刑事訴訟法(注2)の改正で、録音・録画制度が導入された。これは取り調べによる自白に過度に依存する刑事裁判からの脱却と取調べの適正化を目指したものである。
しかし、実際に定められた法律はこの目的に忠実ではなかった。第1に、録音・録画の対象を非常に狭いものとした。対象事件は裁判員裁判の対象となる一定の重罪である。その対象となる事件でも、録音・録画は逮捕・勾留後の取り調べに限った。別件逮捕(注3)時の取り調べや任意取り調べ(注4)は録音・録画の対象とならない。しかも、例外が多い。記録すると被疑者が供述し辛らくなる場合、録音・録画機器が故障した場合、その他やむを得ないときは録音・録画しなくて良いというのである。
第2に、規定の仕方が妙なのである。取り調べ時に暴行や脅迫がないように録音・録画するというのであれば取り調べについて定める規定の個所に録音・録画義務を定めればよいはずである。しかし、実際には、公判における自白調書の取り調べの個所に規定を置くのである。しかも、自白調書の任意性が問題とされたときには検察官はその調書が作られたときの取り調べの記録媒体を取調べ請求しなさいという定めを置き、しかる後に、取調の際は録音・録画しなさいという規定を置くのである。前述した目的からすれば順序が逆というしかない。また、後に触れるが、取調べ請求の対象は自白調書が作成されたときの取り調べに限っているので、自白に至った過程に暴行・脅迫があったかは見えないのである。
(注2)「刑事法」というとき刑事実体法と刑事手続法というものがある。前者は、「人の者を盗んだら10年以下の懲役にするよ」という、してはならないこと(犯罪)、及び、してしまったときの不利益(刑罰)を定めるものである。「刑法」が代表的なものであるが、そのほかにも多くの刑事実体法が存在する。
これに対し、刑事手続法とは、刑事実体法を実際に適用して刑罰を確定・実施するための手続きを定めた法律である。「刑事訴訟法」がその代表である。
(注3) 本命の重い犯罪でなく、口実に使う軽い犯罪の容疑でなされる逮捕。本命で逮捕するための容疑が固まらなくても身柄拘束して取り調べたいときや勾留期間制限を逃れるために使われる。今市事件でも、多くの場合は罰金等で済まされる商標法違反いう容疑で逮捕・勾留が始まった。
(注4) 任意だから取り調べに応じなくても良いし、一旦応じてもいつでも続行を拒否し取調室から退去できるはずである。しかし、実際には執拗な「説得」や「有形力の行使」(肩に手をかけたり退出を妨害など)がなされ,実質上の強制取調べが行われることがしばしば見られる。なお、今市事件では、商標法違反事件起訴後の勾留中の殺人事件の取り調べは任意取り調べだとされる。
3 前項で,記録媒体の証拠調べ請求といった。その証拠にはどのような種類があるのであろうか。
人証、物証、書証といった証拠の外形による区別もあるが、ここでは自白調書につき証拠によって証明する対象は何かという観点からの区別を紹介する。自白の任意性を証明する証拠(「任意性証拠」と呼んでおこう)、自白の信用性を証明する証拠(「信用性証拠」と呼んでおこう)、被告人が犯人であることを証明する証拠(「実質証拠」と呼んでおこう)がそれである。
自白が任意であるとは,強制や欺罔によらず、被疑者が自由な意思で自白したということである。暴行や脅迫による自白は任意性が否定されるのは当然である。自白しないと死刑になるぞ、共犯者は既に自白しているぞ、などとだまして自白させれば任意性は否定される。
記録媒体に取調官の暴行や威迫が録音・録画されていれば任意性否定の大きな材料になる。記録媒体に被疑者が涙を流しながら自白している姿が記録されているような場合に任意性を判断できるか。これについては後に述べる。
自白の信用性とは、問題となっている自白がどの程度確からしいかということである。強制による自白は、暴行等から免れるために偽りの自白をしたという可能性が疑われる。しかし、自由な意思による自白がいつも真実だとは限らない。身代わり犯人の自白はその例である。
記録媒体に被疑者が反省の言葉を込めながらすらすらと自白していれば、その内容を真実と考えてよいか。これも後で述べる。
被告人が犯人であることを証明するとは、被告人犯行現場を目撃した者がいるとか、凶器に被告人の指紋とDNAが検出されたというような場合があろう。もちろん、これらの証拠にも誤りがありうるが、要するにこれらは被告人が犯人であることを証明する証拠となりうるということである。
では、記録媒体に現れる被告人の供述を証拠に有罪としてよいか。これについても後に述べる。
4 先に証拠調べ請求といった。裁判所は当事者から請求のあった証拠は全て取り調べなければならないか。
これを認めると,裁判が延々と続くことにもなりかねない。従って,裁判所は事案解明に必要かつ相当な証拠に絞って取り調べを認めることになる。
しかし、このほかに証拠調べの対象とすることについての制限がある。暴行や脅迫による自白調書は、その取調べを許せば捜査機関の違法捜査を助長することになりかねない。また、前に述べたように虚偽の事実が含まれている可能性があり、事実認定の誤りをもたらしかねない。このような証拠や自白は事実認定者(裁判官や裁判員)の目に晒されないようにする必要がある。これが、「証拠能力」という問題である。要するに、事実的、法律的に不適切な汚れがある証拠は法廷に顕出させないという法理である。
法律的に不適切な証拠としては伝聞証拠がある。典型的にはA証人の、「Bさんが、『XさんがYさんを刺すのを見た』と言っていました」との証言である。当事者が相手方証人に反対尋問できることが刑事裁判の必須の要素であるのに、この場合、弁護人はBさんの目撃事実の真実性についてはBさんに聞くしかなく、Aさんに反対尋問しても意味がない。これも証拠能力なしとされる。供述書や供述調書も同様に、書面に反対尋問できないので証拠能力がないとされる。
この証拠能力と証拠の信用力は全く別の概念である。令状もなく無理やり被疑者から採取された尿から覚せい剤が検出されたとき、その鑑定結果はおそらく信用に値しよう。しかし、違法な捜査によって採取された証拠として証拠能力が否定されることがある。これによって無罪となっても、司法の潔癖性を守り、捜査の適正を期するためにやむを得ないというのが憲法及び法律の立場である。
この場合、その鑑定結果を見た事実認定者は、この鑑定結果を頭の中から追い出さなければならず、これを心証形成の材料に使ってはならないことになる。とはいえ、被告人が覚せい剤を使用したことを既に知っている場合にその事実認定者は本当に無罪と判断を出せるであろうか。この心配の故に、証拠能力のない証拠は証拠調べの対象としてはならず、できるだけその目に触れさせないようにしようというわけである。
5 さて、議論を本題の録音・録画による記録媒体に絞ろう。
これを調べる場合として、任意性の有無の判断をする場面、自白の信用性を判断する場面、被告人が犯人性を確かめる場面があることは既に述べた。順に見てみよう。
(1) 記録媒体を自白調書の任意性を判断する資料とすることは今回の法律改正が明示したところである。ところが、法律は記録媒体のどの部分を(映像画面の一部か全部か、請求のあった記録媒体の一部か全部か,編集は許されるか等),いつ(公判前整理手続き(注5)か公判か)、どのように(録音だけか,録画だけか、その両方か等)調べるかを規定していない。ただ、自白調書作成時の取り調べ全体の記録媒体の証拠調べ請求をせよというだけなのである。
さて、ここでの審理目的は捜査機関による暴行、脅迫、欺罔、誘導等により被告人(被疑者)の自由意思が侵害されたかを判断することである。そうとすれば、捜査官(警察官または検察官)の声を調べれば十分であろう。弁護人が声と音を出さずに暴行したと主張する場合にのみ映像を調べることにすればよいはずである。そして映像を観察するときは、録画の被写体と方向を注意すべきである。取調官の背中と被疑者の正面が映る映像を見た場合と、逆に、被疑者の背中と取調官の正面を映した画面を見た場合とで、前者の方が任意性を肯定する割合が高くなるとの実験結果が報告されているからである。
また,暴行等によって自白を始めたかを調べるのであれば、自白そのものを視聴する必要はない。自白開始前の記録媒体の調べこそが必要であり、また、それで十分なはずである。
いずれにせよ、ここでは証拠能力の有無を判断することが目的である。つまり、問題となっている証拠(ここでは自白調書)を事実認定者の目に触れさせてよいかという問題である。これを判断するためにその証拠と密接な関係を有する証拠(ここでは記録媒体)を事実認定者に見せたのでは、何のために証拠能力の有無を調べることにしたかが分からなくなる。殊に、法律専門家でない裁判員の場合は、現実に任意性証拠と信用性証拠、実質証拠の区別が困難な場合が多いであろう(注6)。他方で、証拠能力の有無は訴訟手続きに関する法律問題である。裁判員の仕事とされる犯罪事実の認定、刑罰法令の適用、刑の量定のいずれにも該当せず、むしろ裁判官の権限とされる事項である。
そうとすれば、任意性証拠である記録媒体は裁判員の在席しない公判前整理手続きにおいて調べるべきことになろう。
(注5) 裁判員裁判制度が導入されたとき、裁判員にかかる時間的負担をできるだけ少なくすることを狙って、正式の公判開始前に、裁判員抜きの場面で当事者の主張や証拠、立証計画を定めておこうとして作り出された手続きである。訴訟は流動するものであり、刑事裁判は検察官が合理的な疑いを超えるまで証明しなければならない原則があるのに、検察官の立証を始まらないこの段階で被告人・弁護人の手足を縛るような手続きが被告人の防御権を侵害するのではないかとの疑問がある。
(注6) 今市事件では、記録媒体を信用性証拠として調べたのであるが、東京高裁判決は、被告人の供述が信用できるかと被告人が犯人であると認められるかは紙一重であり、実際には記録媒体により被告人の犯人性を認定するものとなっており,適正な事実認定の手続きと言い難いと判断している。
( 2) 記録媒体を信用性証拠として使用することは 適切・有効であろうか。
供述調書の信用性に関し、供述内容が理路整然としている、首尾一貫している、迫真性がある、秘密の暴露(注7)が含まれているなどの理由でこれが認められることがある。記録媒体についても同様の判断手法が取られうるであろう。
ところで,被疑者が自白するに至る環境はどのようなものであろうか。それは自由な空間での対等当事者の会話とは大きくかけ離れている。実際には、取調官の支配する取調室という密室で孤立に晒され(取り調べに際し弁護人の立会いは認められていない)、長時間、長期間にわたり身体的、精神的に支配された被疑者が取調官の圧力に屈し、ときには取調官に対し迎合的になり、虚偽の自白に至ってしまった例が多く報告されている。このような段階での被疑者は、既に取調官から教え込まれてきたストーリー(秘密の暴露を含む)をすらすらと、ときに涙を流しながら、ときに反省の言葉をはさみながら、ときにジェスチャーを織り交ぜながら、あたかも自発的に供述しているような態度を見せる。このような供述態度を見た者は、殊に取り調べの実態を理解していない者は、その被疑者がいかにも自発的に任意に供述しているように見えてしまうであろう。その意味で、取調中の自白供述の映像を見て、その供述態度から任意性を判断することは誤判の原因となり危険である。
また、カメラアングルによって任意性判断に差が生ずると述べたが、信用性判断にも同様の問題が生じよう。
さらに、今市事件高裁判決が述べるように、信用性判断と犯人性判断の区別は相当困難である。後述するように、記録媒体を実質証拠として用いることは法律上許されないとすれば、信用性証拠としての使用も許されないことになる。
結局、記録媒体を信用性証拠として使用することは有効でないばかりでなく、危険であり、また、法律上許されないということになろう。
(注7) 犯人でなければ知り得ない事実を内容とする供述。未発見の凶器の所在についての供述などがそれである。
(3) 記録媒体を実質証拠として用いることは許されるであろうか。
第1に、(2)で述べた危険がある。
第2に、これを許せば、公判が取り調べ場面の再現となってしまい、また、事実認定者は取調官の見方、手法を引き継ぎ、捜査機関の心証がその事実認定に反映される危険がある。これは公判で証拠資料(自白についていえば,被告人の供述であってその記録ではない)を直接調べ、そこから心証を形成して判断しようという公判中心主義、直接主義に反する。また、取調への過度の依存を是正しようとした立法の趣旨にも反する。
第3に、記録媒体を実質証拠にしようというのであれば、それは記録媒体内の供述内容を証拠に使うことを意味する。そして、記録媒体に対して反対尋問はなしえないのであるか、これは伝聞証拠となる。その証拠能力を認めるには供述の任意性が要件とされる。この場合、記録媒体に残された情報だけでなく、録音・録画がなされていないときの暴行、脅迫、誘導等が問題とされざるを得ない。しかし、今回の改正法で定めた検察官への記録媒体の証拠調べ請求義務付けは、自白調書の任意性の争いが取調官と被告人の主張の投げ合いとなり、水掛け論となり、公判の審理に大きな負担となっていた事態を回避することを目的として、任意性の争いは記録媒体によって決着しようとして工夫されたものである。その記録媒体を実質証拠として利用することにより従来の任意性の争いを蒸し返すことは、改正法の狙いに反し、およそ法の予定するところではないというべきであろう。
結局、記録媒体の実質証拠としての利用は、誤判の危険があり、刑事司法の原則にも反し、また法の趣旨にも反するもので、許されないというべきである。
6 以上見てきたように、今回の改正法により対象が狭められた録音・録画の記録媒体は、一方でその効用に限界があり、他方で,法の定めた方法によるその利用は危険を伴うことが明らかとなった。
記録媒体では証拠調べ請求の対象となった記録媒体作成時以外の取り調べ中の暴行、脅迫、誤導等の存在は分からない。分かるのは、当該記録媒体内の暴行等の有無だけである。
他方で、記録媒体は録画・録音方法によって異なる印象を与える。しかも、その印象は文字媒体を見るよりそのインパクトが強烈である。それによって形成される心証も極めて主観的であり、心証の是非の事後審査を困難にする。
このような記録媒体の使用には慎重な態度が要請される。まして、検察官の悪用ともいえる利用方法は許されないものであることを確認する必要がある。