〈裁判所の国家政策追随意見〉
私は以前、外1名の弁護士とともに、福島地裁での裁判員の職務を担当して急性ストレス障害になった女性の国家賠償請求事件を担当した際、違憲論の一つの根拠として、裁判員法には立法事実がないと主張した。要するに、そのような制度がこの国の司法において要求される状況には全くないと主張して争った。国民という名の素人が数人参加すればその裁判は国民参加になり基盤の確立となるなどという非論理的な制度に立法事実はないというものである。
福島地裁は、その主張について、前記の司法審意見書、国会での法務大臣の説明、司法審事務局長の説明等を引用し、「裁判員法が国民の司法に対する理解の増進と信頼の向上を図り、ひいては国民的基盤の確立を趣旨とする理由は、社会経済の構造が変革していくことに応じて、国民自らが自己の権利・利益を司法的手段を通じて実現していくことができるよう、司法がより納得性の高い紛争解決機能を提供するという、従来とは異なる新たな役割を果たすことを求められていることにあるといえる。そうであれば、従来の社会経済の構造の下、従来の刑事裁判には何ら問題がなかったとしても、そのことは何ら裁判員制度の導入を不要とする理由にはならないものといわざるを得ない」として立法事実ありとした。
沖縄辺野古沖への基地移転に関する一連の司法判断と同様の、無反省な司法のあるべき姿からは程遠い国家政策追随意見である。前述のとおり、裁判員制度は、陪審派と非陪審派のせめぎあいの中で妥協の産物として現れ、司法の国民的基盤の確立という後付けの理屈によって成立したものであれば、その存在意義のないことは明らかである。この福島地裁の判決は、先の大法廷判決同様、司法の信頼を失墜させるものである。
〈一刻も早く廃止させるべき〉
1990年代に財政がひっ迫する中、政策立案をするに際しては、より税金を有効に使おうとしてEBPM(Evidence Based Policy Making)という考え方がイギリスで生まれ、世界に広まったと言われる。裁判員制度は、司法の国民的基盤の確立などという証明しようもないものによってできあがった、財政上も全く無駄な支出を要するものであることは明らかである。膨れ上がる財政赤字の解消策の一つとしても、一刻も早く廃止させるべきだと思っている。
仙台高裁管内独自の取組みとして、東北六県の各地裁が裁判員制度をPRするキャッチコピーを募集しているという(河北新報2018.12.29)。どんなキャッチコピーが集まるのか楽しみだが、没しようとする太陽を止めることができないように、たそがれ裁判員制度の没することを止めることはできないことは明らかである。
それでも裁判所がそのような裁判員制度維持に尽力するのは何故か。私は以前、コリン・P・Aジョーンズ氏の「『裁判員制度は裁判所に対する批判をなくすためのもの』『裁判官のための制度』という意見は真実であり、そのために石にかじりついてもこの制度を手放したくないと本当に思っているのではないかと邪推したくなる」と書いた(拙著「裁判員制度はなぜ続く」p115)。
人の腹の中は分からないからこれも推察でしかないけれども、この裁判員制度を維持している間は、陪審制度という、以前日弁連が求めた裁判官の裁判権の制限につながる制度は絶対に行われることはないから、その意図もあって裁判所はこの裁判員制度にしがみつこうとしているのかなどと深読みしてしまう。