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 〈日米で扱いが異なる二つの考え方〉

 1 違法収集証拠の排除という考え方がある。捜査機関が重大な違法行為により取得した証拠は刑事裁判上の証拠として使えないという原則だ。これは、国家が人を罰する場合は、公正な手続きによってなされなければならないという考え方が基礎にある。

 しかし、この考え方を採用すると、真実が犠牲にされることがありうる。
 

 たとえば、警察官が、何の疑わしい事情もないのに、ある人の走行車両を止めて、運転手に職務質問している間に、他の警察官が車内を物色し、助手席にある鞄を勝手に開けて内部を探り、覚せい剤を発見し、運転手を現行犯逮捕し、その後に裁判所から令状を取って、強制的に尿を採取し、覚せい剤使用の鑑定結果を得るとしよう。

 捜査方法が相当悪質であり、令状主義にもとるとして、押収した覚せい剤も尿の鑑定結果も証拠として、刑事裁判で使用できないとされることがある。

 すると、令状主義という手続的公正さは確保できたが、覚せい剤所持及び使用は間違いないのに、被告人を無罪としなければならない。つまり、実体的真実は手続的公正に席を譲らなければならない結果となる。

 日本国憲法は適正手続きを保証していると解釈され、最高裁判所も違法収集証拠排除法則を認めている。

 この「適正手続き」は実はアメリカの憲法と裁判例に強い影響を受けている。

 2 そのアメリカでは、1950年代から60年代にかけてウォーレンが首席裁判官を務めた連邦最高裁判所が、次々に被疑者・被告人の権利を充実・確立させていった。ウォーレン・コートと呼ばれる。よく知られているのが、「ミランダルール」である。警察官は逮捕時に、被逮捕者に、黙秘権や弁護人選任権を告知しなければならず、これに反して得られた供述は裁判では使えないとするものである。

 アメリカは、憲法で陪審裁判が保証され、被告人が裁判官裁判を選択しない限り、事実認定は陪審員に専属する。そして、上訴裁判所は裁判官のみで構成される。従って、有罪判決を受けた被告人は上訴できるが、控訴審裁判所は陪審員裁判で決した有罪の是非を審理できない。そこで審理・判断されるのは、一審の手続過誤の有無である。勢い、アメリカの刑事司法では手続的公正の有無が重視されることになる。

 3 他方、日本では裁判官が事実認定する。控訴審裁判所も、一審の事実認定の是非を論ずるのに、法理的な障害はない。

 従って、手続的公正が実体的真実(有罪か無罪か)に優先する必要性・合理性はアメリカに比して薄い。

 もっとも、日本も裁判員裁判制度を導入した。一審では、6名の市民裁判員と3名の裁判官が事実認定をする。そして、控訴裁判所は裁判官のみで構成される。

 裁判員裁判の事実認定を控訴裁判所が審理・判断できるのかの問題が生ずるが、裁判員裁判制度導入時には、この点は何の手当も改正もなされなかった。そして、現実にも、裁判員裁判の実体判断を覆す控訴審判決が出されている。少なくとも、裁判員裁判による無罪判決を控訴審が裁判員抜きで覆すとこは許されるべきではないとすべきではないだろうか。


 〈米国では過度の手続的公正を見直す論調も〉

 4 上記のような手続的公正の偏重がどのように運用され、いかなる効果をもたらしているか。

  アメリカの実態を見てみよう。

 前述したミランダ・ルールを例にとれば、権利放棄の説得も黙示の放棄を認められ、実際には容疑者の90%前後が権利放棄をしているとされる。

 他方、誤判を是正する道が制限されているため、冤罪が多発している。ことの性質上、正確な数字は不明だが、毎年、数千人、数万人の重罪冤罪が生じているとか、囚人の10%が冤罪の可能性があるとか言われている。シカゴ大学法科大学院の研究機関によると、1989年以降、2021年までに、冤罪は2700件が判明しているとされる。

 これが死刑事案だと、さらに深刻である。

 ある研究によると、1973年以来、死刑判決25人に一人が冤罪だったという。実際に、1973年以降、2021年までに、死刑の冤罪は170件が明らかになっている。

 DNAテストの開発により、冤罪判明数が増大したが、DNAテスト対象外の事件の方が圧倒的に多いので、冤罪の実態は恐るべきものであろう。

 そのため、適正手続きを導く当事者主義への懐疑が主張されるようになった。ミランダ・ルールについていえば、当初から、捜査機関の手を過度に縛るものだとか、真実が犠牲にされるとの批判があった。しかし、近時では、被告人の立場からも、過度の手続的公正重視を見直して、truth=真実をもっと強く追及すべきだとの実務家や研究者の声が聞かれるようになっている。


 〈日本でみられる警察・検察の違法行為の適法化〉

 5 日本ではどうか。まず、警察・検察の違法行為の適法化という現象がみられる。暴力を「有形力の行使」、監禁を「説得による残留」と言い換えるなどがそれである。市民が警察官の身体に触れた程度で「職務執行妨害」とされたりすることがある一方、警察が市民の肩や腕をつかんで立ち去りを妨害する行為を「社会的に相当な有形力の行使」とされるなど、両者の間には隔絶がある。

 さらに、捜査機関の違法行為があっても、重大でないとか令状主義の精神に反するものではないと言って、多くの場合は証拠排除法則の適用を認めない。
 

 そして、仮に違法収集証拠が排除されても、裁判所は、その証拠とかかわらない他の証拠を見つけて有罪判決を下す。

 つまり、日本の裁判所は、証拠排除法則を骨抜きにして、「社会の秩序を維持」しようとするのである。

 これでは、捜査機関の人権侵害はなくならない。他方で、前述したように、手続的公正を強調しすぎると、実体的真実に反する結果をもたらす結果となりかねない。

 6 筆者としては、刑事裁判では実体的真実を強調し、他方で違法行為をした警察官・検察官には、刑事上、民事上そして行政上の責任を取らせることにより、違法行為を防止し、国民の権利を擁護すべきではないかと思うのである。それが、社会の秩序維持と個人の権利擁護・捜査機関の違法行為の防止とのバランスをとる方法ではないだろうか。

 現在、違法行為をした警察官・検察官には特別公務員暴行陵虐罪が用意され、そのほかにも監禁罪等がその要件を満たせば適用されうる。

 しかし、刑罰を科するには故意を必要とされ、証明の程度も重い。なんと言っても、立件するのが警察であったり検察である。仲間内で甘くなる可能性がある。警察官・検察官の職務上の違法行為を扱う公平・中立な機関が必要であろう。また、一定の累計の事案については、故意の推定規定を設けて訴追側の立証責任の軽減を図ることも考えられる。

 懲戒処分についても、やはり、公平・中立な機関による事案処理が望まれよう。

 民事責任については、現在の法律・判例では、警察官等は職務上の違法行為によって国民に損害を与えた場合、当該警察官等は、被害者に対して直接の損害賠償責任を負わない。精々、国や公共団体が賠償したときに、故意または重過失のあるときのみ、警察官等が国等から求償請求されることがありうるだけである。

 これでは、警察官等は事実上、民事上の責任を負うことを心配せずに違法行為を行うことができる。捜査機関の職務に委縮効果をもたらすような制度は社会の安寧に害をもたらすことも考えられるが、故意や重過失による権利侵害行為があれば、国等に併せて警察官等の個人も責任を負う制度とすることが検討されるべきである。



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