防衛力拡大や増税など、唐突感が否めないここのところの岸田政権の姿勢に、一部の識者から、支持率回復はもはや困難とみた首相が、矢継ぎ早に在任中での爪痕を残そうとしているのではないか、という見方が聞かれる。もちろん、真意は分からないし、それが事実だとしても絶対ご本人が認めるところとならないのは明らかだが、少なからず国民の目には、そのように映っていてもおかしくはない。
だが、この政権の爪痕というのであれば、どうしても一つ付け加えなければならないものがある。それは、政権担当者が放つ「責任」という言葉の、完全な空文化である。
4閣僚と1政務官の辞任。説明を本人に委ねた末、「事実上更迭」。任命責任を重く受け止めるが、本人から辞任を申し出があったと述べるだけ。メディアが「更迭」であるという事実を読み切って、国民に伝えているが、岸田首相からはそこから先、何の説明もない。
責任を「受けとめる」というが、そこから先がない。岸田首相の姿勢には、その先の「取る」や「果たす」がないことにあきれる声が、ネットには溢れている。総辞職するつもりがない、続けるという意思はもちろん国民にはっきり伝わっているが、それほどには「重く」受けとめてはいない「責任」ということになる。
これは、国民にとっては当然「悪しき」、政権担当者にとっては、あるいは「有り難い」前例になるかもしれない。いうまでもなく、これほどの任命責任が問われる局面でも、裏打ちするものを伴わない、言葉だけの「責任」を「重く受け止める」や「痛感」で、この国では続投できるという前例としてである。
一時代前には、日本人の「責任」の取り方として、すぐ「辞める」という結論が導かれることを、「切腹文化」のようにとらえ、それだけが責任の取り方ではない、というように、やや疑問視する見方もあった。しかし、ここまで彼らが放つ「責任」が空文化してしまうと、就任してしまえば何でもありと言っていい、国民から断絶した政権担当者を私たちは見ていることになってしまう。
つまり、岸田首相にとって、国民はもはやどうしても理解や共感を得なければならない存在ではない。それを回避しても、なんとか通用するということ。つまり、本質的な意味において、彼にとっては本当「聞く力」などは必要ないということなのだ。
岸田首相は、12月16日の「安全保障三文書」閣議決定後の記者会見でも、1箇所「責任」という言葉を使っている。
「防衛力を抜本的に強化していく、そのための裏付けとなる安定財源は、将来世代に先送りすることなく、今を生きるわれわれが将来世代への責任として対応すべきものと考えた」
政策を推し進めるという文脈では、責任=行動になる、非常に都合がいい使い方にとれる。しかし、本当に恐ろしいのは、彼の空文化した、都合がいい「責任」の用法では、将来世代への「軍拡」の「責任」は視野にないばかりか、そのことについて国民の理解や共感を得る「責任」を読み込めるところが、どこにも見出せないことである。
もっとも裏づけを伴わない、示さない「責任」を口にしながらの続投についての「前例」としたが、岸田首相のなかで、本当は誰かを「踏襲」しているという意識で、自分を許しているのかもしれない。それは、進退だけではない、安倍政権でも見られた国民無視の「暴走」の「前例」とみるべきかもしれない。
これ以上の悪しき「前例」許さない、私たちの自覚も試されている。