〈有意な格差はない日米の有罪率〉
日本の刑事裁判における有罪率99.7%は極めて高いとされる。否認事件でも98%の高さを誇る。
これについて、警察・検察が優秀であり、充実した捜査と、起訴時の厳しいスクリーニング、裁判における精密な審査のなせる業であるとして、積極的に評価する立場がある。
他方で、自白偏重の捜査と裁判、その中で生じる「人質司法」と呼ばれる病理現象、検察と弁護人の間の捜査・訴訟に使える資源と権限の不当な不均衡、その中で生ずる検察官の証拠開示への消極姿勢と弁護人の証拠収集不足、官僚司法と言われる中で裁判所のチェック機能不全等が指摘され、本来あるべき当事者主義的訴訟構造の実質的後退の結果が異常に高い有罪率をもたらしているとする消極的意見もある。
しかし、そもそも日本の有罪率は本当に異常に高いのか。当事者訴訟構造の本家であり、戦後、日本が刑事訴訟の手本としてそこから多くの基本原則を導入したアメリカの状況はどうであろうか。
アメリカでは50の州と連邦が異なる司法領域を構成し、それぞれが異なる事情を有するが、全州と連邦を合わせて、否認事件の有罪率は83%前後とされる。確かに、否認事件の96%前後が有罪となる日本に比較して低い。
しかし、アメリカでは「有罪答弁」という制度がある。公判前の検察と弁護人・被告人の交渉(司法取引)で、多くは被告人が有罪答弁をし、この場合は公判は開かれない。そして、この有罪答弁が97%以上とされるのである。すると、公判の開かれる3%のうちの83%、すなわち全体の2.5%(3%×83%)が裁判で有罪とされることになる。有罪答弁と合計すると99.5%の有罪率である。
結局、日米での有罪率に有意な格差はないということになろう。違いがあるのは、公判による有罪か有罪答弁による有罪かである。
〈高い有罪率の背景にある病理現象〉
そうすると、この司法取引による有罪答弁をどのように評価するべきかが問題となる。
犯罪が多発するアメリカで、有罪答弁を認めなければ人的・物的資源が追い付かず、刑事司法自体が破綻する、被告人も検察と取引をして有罪を認める代わりに有利な刑を得ることができ、何よりも長期間の複雑な手続きによる負担を回避できるとして、これを肯定的に評価する立場がある。
他方で、この司法取引には無視できない病理現象が伴っているとも言われる。
日米とも起訴を決めるのは検察官である。アメリカでは、大陪審という制度があり、これが起訴するケースもあるが、実際には大陪審は検察官の言いなりであり、ここでの議論には影響しない。
日本では、起訴するか否かは、犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の状況を検察官が勘案して起訴の有無を決めるものと定められている。一応の法的基準がある。また、不起訴の場合には検察審査会によりその適否を審査する制度がある。もっとも、不当な起訴に対しては、最高裁は極めて広範な検察の裁量を認め、極めて例外的な場合以外は、起訴の違法を認めない。
他方、アメリカでは、起訴・不起訴の基準が非常に不明確で、検察の裁量が広く認められ、決定についての説明責任もない。したがって、極めて恣意的な起訴・不起訴の運用がなされているとの指摘がある。例えば、黒人を狙い撃ちにしたとしか思えない起訴傾向があっても、連邦最高裁は、いま法廷に継続している具体的事件について検察官が差別的動機によって起訴したことが証明されない限り、起訴の違法性を問題にできないとしている。偏向起訴を証明するために人種別起訴件数等の資料開始を請求しても、同じ理由によって認められない。事実上、検察官の無制限な起訴裁量を認める結果となっているのである。
他方で、実体法である刑法において、日本のような、一つの犯罪事象を一つの犯罪とする制度を持たないため、例えば、他人の家に侵入し、物を盗むという行為につき、日本でならば牽連犯として一つの刑が科されるところ、住居侵入及び窃盗という2つの犯罪がばらばらに成立し、それぞれの犯罪に刑罰が課される。
このため、アメリカの検察官は、住居侵入を落として窃盗だけの起訴をする代わりに有罪答弁するように取引を持ち掛けることになる。
この検察官の交渉力は、連邦及び多くの州で導入されている最低量刑法によって強化される。この法は、特定犯罪には裁判官の量刑裁量によっては、これ以上短くできないとする長期懲役刑を定める。1970年代からの重罰化傾向も伴って、一旦、検察官が特定犯罪で起訴すると、その罪で有罪になれば、確実に相当長期の懲役を課されることになる。ここでは、刑罰の軽重につき、量刑に関する裁判官の裁量権は奪われ、どの犯罪で起訴するかの検察官の裁量だけが残されるのである。
結果として、被告人は、長期刑を避けるために、あるいは死刑を回避するために、犯してもいない犯罪についても有罪答弁をすることになる。このような冤罪も数多く報告されているのである。
アメリカの有罪率が高い背景には、以上のような病理現象が存在する。これを改善するために、検察官の裁量権の制限やその説明責任の充実、検察官の不当・違法行為に対する不利益処分の実効化、検察権限行使の立法機関及び司法機関によるチェック、重罰規定の見直しと死刑の廃止等が提唱されている。
日本においても、誤判・冤罪事件は跡を絶たない。その中には、検察の不当な権限行使・不行使が原因とされる事件も少なくない。このとき、冤罪の不存在を前提とするような死刑制度の死守、検察の裁量権限を強める日本版司法取引制度の導入、取り調べ録音・録画の実質証拠としての使用、冤罪国家賠償訴訟における事実上の国及び検察官の免責等、検察へのさらなる武器の提供は、治安の偏重と誤判の助長を意味し、99.7%の有罪率をさらに100%に近づけていくことが危惧されよう。このような事態が進行すれば、日本の刑事裁判はいよいよ絶望的である。