司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 
 〈市民活動制限の実質的法的根拠〉

 筆者は、現在、フィリピンのセブ市に滞在し、この国の法制度の勉強をしている。ところが、市全体の隔離宣言(community quarantine)が出され、3月16日から4月14日まで、日常生活や社会経済活動が制限されることになった。新型コロナウィルスのためである。普段、騒々しいこの町の市街地も閑散としている。

 フィリピンにおける、このよう隔離宣言や関連する各種市民活動制限の実質的法的根拠は、国家、及び国から権限移譲される地方政府の「ポリス・パワー」にある。ここでいう「ポリス・パワー」とは、国家の任務は市民の福祉向上(そこには、健康、道徳、平和、教育、秩序、安全等が含まれる。)にある、という考え方に基づくのであり、財産収容及び課税と並ぶ、3つの基本権力の一つとされる。そして、それは、国家(権力)に必要欠かさざるべきものであるだけでなく、むしろ、国家(権力)の存在意義そのものともされる。それだけに、国民の自由や人権と衝突する場面も多くなり、両者のバランスが重要な課題とされるのである。

 そのため、フィリピンで憲法人権法を学ぶときは、憲法の明文にはない「ポリス・パワー」が極めて手厚く扱われる。

 ところで、フィリピン憲法の人権規定は、同国が近代において45年間、アメリカの支配下に置かれたこともあり、合衆国連邦憲法の強い影響を受けている。それは、1946年に同国から独立した後、今に至るまで続いており、アメリカ連邦最高裁の判決は、フィリピンの裁判所で非常にしばしば引用されているのである。

 では、そのアメリカでの「ポリス・パワー」は、どのような意義と機能を有するか。基本的には、フィリピンと同様であり、連邦憲法及び州憲法で定める人権規定に反しない限りで広い範囲に適用される。

 しかし、アメリカは連邦制をとることから、「ポリス・パワー」は、もう一つ、特殊な機能を持つ。そして、この機能が、憲法学や連邦裁判所での大きなテーマとなるのである。

 アメリカは、権力に対する猜疑心から出発したという歴史を持ち、国(連邦)を作る際に、その権力を可能な限り制限しようとした。そこで、連邦憲法は、連邦の権限を列挙し、そこに書かれなかった事項は、連邦議会が法律を制定することも、行政府が実行することも許されないとする。そして、書かれなかった権限として、「ポリス・パワー」があるのである。


 〈連邦と州の権限争いに〉

 すると、権力の不可欠な要素であり、存在意義でもある「ポリス・パワー」はどこに所在することになるのか。それが、連邦以前に存在した、そして連邦の構成要素である、各「州」ということになる(この点は、フィリピンでは、ポリス・パワーが国家に専属し、地方政府は国から与えられた権限の範囲でこれを行使するという点で、アメリカとは逆となる)。

 このようなわけで、連邦と州の権限争いが生ずることになる。すなわち、連邦(国)が州(地方)にかかわる規制立法を制定しようとすると、州や規制対象の私人が、それは「ポリス・パワー」に属する事項であり、連邦の越権行為だ、違憲だと主張するのである。(なお、これに対する連邦の反論は、ポリス・パワーであることを否認するか、規制対象は「州際通商条項」だと主張することになるが、この点については、私の連載第5回を参照されたい)

 ところで、アメリカでも新型コロナウィルス感染が蔓延するようになり、連邦政府も州政府も、その対応に追われている。そんな中で、3月17日、ニュー・ヨーク州知事アンドリュー・クモオ知事が、連邦軍隊の導入を含めた連邦政府の迅速かつ大規模な対応を求めた。これに対し、ドナルド・トランプ大統領が、それは一義的には州や地方の責任だと反論したのである。「ポリス・パワー」を盾に、責任を押し付けたということになろう。これまでの、「ポリス・パワー」を理由として権限を奪い合う構図とは正反対の事象である。

 今回の世界的なパンデミックは、社会の広い分野に大きな影響をもたらし、これまでの産業活動や日常生活、社会や経済の在り方に再考を促しているようにも見える。アメリカの連邦主義もそのような中で、一つの変革の起点になっているのかもしれない。

 なお、セブ市では、酒類の販売が禁止されてしまった。かつてのアメリカの禁酒時代の到来である。私は、隣の市まで出向いてお酒を購入し、難を凌いでいる。



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