〈映画「12人の怒れる男」にみる危うさ〉
ヘンリー・フォンダ主演の「12人の怒れる男」という有名な映画がある。父親殺しで起訴された18歳の少年の刑事裁判をテーマとするもので、証拠調べが終了し、12人の陪審員が陪審員室に入り、有罪か無罪かの評議を開始する。当初は11人が有罪、1人が無罪の意見を言う。陪審裁判では、12人の一致がないと有効な評決とならない。そこで、しばらく討議するが、結論に至らず、証拠を一つ一つ検証し始める。長時間の評議を経て、ついに全員一致で無罪という結論を出す。冤罪を防ぎ、正義が実現されたというものである。
私が、アメリカのロー・スクールに在籍していた時も、アメリカの刑事司法のすばらしさを示すものとして、授業の中でこの映画が上映された。
しかし、よく考えてみると、もしヘンリー・フォンダがいなければ、無辜の少年はあっさり有罪とされてしまったのではないか。むしろ、この映画は、陪審員裁判の危うさともろさを示すものとなっていないだろうか。 従来、私はこのような批判的見解を持っていた。そして、最近、「12人の怒れる男」の逆バージョンとなる現実の刑事裁判報告文書(John Grisham及びJim McCloskey著 「Framed」 )に接した。
1992年2月、街角で黒人男性が射殺される。そして、3人の白人青年が逮捕され、殆ど証拠らしい証拠もなく、1人のあやふやな目撃者の証言により有罪とされ、終身刑を言い渡される。後に証言した陪審員は、弁護士資格を持つ黒人陪審員が他の陪審員に強迫に近い言動をもって有罪に投票するよう迫ったことを明らかにした。まさに、「12人の怒れる男」の逆バージョンである。一人の陪審員の強い説得があれば、判決は右にも左にも行き得ることを示している。
なお、本件は、2017年に、アリバイの存在とともに、偽証や検察の証拠隠しも明らかになるなどして、再審無罪とされた。
〈評決の経緯を検証できない裁判員裁判〉
さて、日本の裁判員裁判はどうか。裁判体は3人の職業裁判官と6人の素人裁判員で構成される。評決は全員一致を求めず、過半数で決せられる。
もし、裁判官3人の意見が一致しているとき、裁判官にとって、過半数を得るために2人の裁判員を説得することは極めて容易であろう。しかも、裁判員は評議の内容について守秘義務を負う。既述のアメリカの例のように、事後にどのような経緯で評決に至ったかを検証するすべがない。上訴審や再審での、この点からの裁判の見直しは不可能である。誤判が起こりやすく、救済が難しいシステムというべきであろう。
ところで、裁判員裁判独自の問題ではないが、近時、再審に関する法律改正が声高く求められている。冤罪被害者、弁護士、その関連団体は、検察官の弁護人への証拠開示と再審開始決定に対する検察官の不服申し立ての禁止を強く主張している。 私は、誤判を正すという観点から、その主張に異議はないが、そもそも誤判を生まないことが何よりも重要である。そうとすれば、一審公判における検察官の証拠開示及び検察官控訴禁止が強く要求されるべきであろうと考える。