終息が見えない新型コロナウィルスへの不安感が広がるなかで、改めて気付かされることがある。それは、私たちが、いかに不信感に満たされた社会にいるのか、という、ある意味、その不幸な現実についてである。有り体にいえば、政府の発表も、また、それをなぞるようなメディアの情報も、信じることができない。まともに向き合おうとすればするほど、、何を信じるべきなのか、と立ちすくまざるを得ない。
もちろん、そもそもが疑ってかかることに越したことはない、ということかもしれない。ただ、それでもいまや「隠蔽大国」「偽装大国」とネットで名づけられるような、国にいる、不幸は、こうした不安感に社会に満たされたときに、如実に感ぜざるをえなくなることを思い知らされる。
残念ながら、わが国は公文書が改ざんされ、政権にとって都合が悪い事実が隠蔽されても、その全容が徹底的に明らかにされることも、責任が追及されることもなく、済んでしまう国である。情報は、国家権力の都合によってどうにでも操作され、これまた残念ながら、それに何かが国民のために、現実的に歯止めをかけているという実感も、国民側は持てない。誰も追及しきれず、責任者を権力の座から引きずりおろすこともできない、という無力感のなかにある。
新型コロナウイルスに関する感染者数、それをどう信じて、現状を認識すればいいのか。オリンピック開催をはらんだ思惑や政権の都合。延期か中止かをめぐる決定過程での疑問。ネットで「やっている感」などと揶揄されている、専門家の知見を踏まえたようにみえず、根拠も示されないは当たり的な対応――。
それこそ挙げ出したならばきりがないほど、不透明で疑いの余地が満載のことが、次から次へと現れる。未知のウィルス、私たちが未体験のウィルスに向き合っているときほど、本来、「少なくともこれだけは」という情報を、たぐり寄せたい。まさに、そのときに大きな不信感の壁が立ちはだかっている。
ただ、一方で、問題は私たちの社会が、この不信感にどう向き合っているのか、ということにもある。オリンピック招致の際、安倍首相が言った「福島はアンダーコントロール」という言葉を思い出す。汚染水問題を含めて私たちは、福島原発問題が解決していないこと、「アンダーコントロール」ではないことを知らなかったか。知っていながら、私たちは今年の夏、つい先日まで「復興五輪」が開催されるつもりでいた。
森友問題で、さんざん言われた忖度。官僚が独自の判断で、なんの将来の保証もなく、そのキャリアをかけてある意味、勝手に政権を忖度する不自然さを私たちは知っていなかったか。自殺した官僚の手記を週刊誌が取り上げなければ、今、この問題を私たちの社会はどう扱っていただろうか。
つまり、とことん自らの不信感にすら、忠実ではなかった。言い方は悪いが、そこをこだわりどころとせず、ある意味、誤魔化して、オリンピック開催を期待し、そして森友問題を官僚の「忖度」の問題として片付けかけていたのではないか。「いつまでもそんなことを言っていても仕方がない」「それよりも大事なことがあるだろう」という割り切り方で。
いうまでもなく、この国の権力者にとって極めて都合がいい。いや、もっといってしまえば、彼らの思惑通りに、都合のいい展開に一応おさまったというべきなのかもしれない。要は、彼らを脅かすような、不信感ではなかった。思惑というのであれば、それもまた、見切られていたということになるかもしれない。
メディアの姿勢にも時々驚かされる。例えば、オリンピック1年延期に絡んで、メディアは平然と、安倍首相の任期中の開催や、ご本人がそれをレガシーとしてこだわっているといったことを、批判的な論評を抜きに伝えるのである。コロナの終息でも、アスリートファーストでも、この国の社会への影響でもない、首相の個人的な動機付けを、まるで「お気持ちは分かる」といわんばかりの形で取り上げているのである。
これでは、コロナについても、極めて怪しい「アンダーコントロール」が首相の都合で繰り出されても、それはまたぞろ追及されないのではないか、と思わざるを得ない。
日本人の姿をみていると、時々、権力に対して不信感を持つこと自体を、どこか不健全なものとして捉えているのではないか、と思わせる時がある。権力を信じられる存在とみたい、疑いたくない、疑わない側に立っていたい、というような。しかし、そうした発想は、結局、不健全な権力のあり方を許すことになる。
コロナをめぐる不安感のなかで、今こそ、私たちは誤魔化すことなく、この国で私たちが立たされている不幸な現実を改めて直視する必要があるのではないか。