司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>




 

 ある人の前に、同じ顔、姿、声の人物が現れ、二人が双方とも「自分こそ本物である」と言い始める――。ドラマやアニメで時々見かける、怪奇めいたシーンである。突拍子もないかもしれないが、最近のメディアとネットの情報と、その中に立たされている国民の状況に、このシーンを連想してしまった。

 新型コロナウイルスから、ロシアのウクライナ侵攻へ。メディアやネットの話題の中心が移行した観があるなかで、ずっと私たちは、否応なく、このシーンに立たせられているのではないだろうか。そして、もはやそのことにさえも、気がつかなくなりつつあるのではないか、と思えるのである。

 この間のメディアのスタンスには、ずっと違和感がある。それが公衆衛生にかかわることや、戦争絶対悪の立場に立つのは、当然に理解できるが、その一方で、さまざまな見方があることを、大衆にフェアに提示、判断材料を提供する役割は、後方に押しやっている。

 あらかじめ「あなたや社会のためになる情報を、私たちが選別しますので、あなた方は私たちを信じて、他の情報には目もくれないで下さい」と言われているような気がする。しかし、ネットには、専門家たちの違う見解が流れ、それを私たちは目にすることができる。それが仮に少数派であっても、きちっと取り上げたり、賛否を対峙させることを、なぜかメディアはしていないように感じてしまうのである。

 世論全体を眺めれば、既にその効果は絶大というべきだ。前記の思惑そのままに、メディアが取り上げている情報を多数が信じ、その多数が信じていることが「真実」と多くの人が受け止めてしまうからである。もちろん、ネット情報は玉石混交であると批判され、彼らはそこで語る専門家の異論も、結果的に貶めている。

 ネット上では、驚くことに、新型コロナウイルスで反ワクチンのスタンスの人が、今回のロシアのウクライナ侵攻で、ロシア寄りの意見を言っているという主張まで、まことしやかに言われ出している。メディアのスタンスが、結果的に起こしているイメージ操作にみえる。

 メディアへの危惧は、ある意味、二者択一のような結論の正しさそのものに関するものではない。あくまで、それは私たちの判断にとってのフェアなプロセスに、メディアが意を用いていないということに関してのものである。そこにこだわればこそ、前記のような形で頭からメディアを信じるわけにはいかない人が、反ワクチン、親ロシアのように言われるのであれば、それを見過ごすことはできない。

 3月24日付け朝日新聞朝刊1面トップの「ロシアの無差別攻撃 激化」との見出し記事。ウクライナ市民が多く殺害されていることを伝える記事の、冒頭リード部分には、こんな表現が出て来る。

 「『ウクライナ東部で集団殺害が行われている』などと根拠のない『虚偽』の理由でロシアが始めた戦争で、多くの市民が殺害された」

 事実を伝える報道で、「根拠のない『虚偽』の理由で」と断定するのは、それなりのハードルを越える必要があるはずだ。同じ結論に導く文脈でも、事実は未確認のまま、ロシア側のこういう言い分として、こうした戦争が始められ、多くの市民が殺害されたという表現も当然できた。つまり記者は、あえてこの断定を確信的に加えたことになる。そして、この記事中に、この断定を正当化する根拠は何も示されていない。

 問題は、この断定に見合う、フェアな検証のハードルを朝日側が果たして私たちに提示する形で、これを越えたのかということである。百歩譲って、越えていると主張するのであれば、この当該記事の中で、ここまで断定した証拠を、仮に「おさらい」だとしても、提示すべきではないか。なぜならば、読者がその根拠を知らないまま、これを受け容れてしまう可能性があるからであり、さらに朝日としては、多数読者の中に既にあるだろうと想定した見方のうえに、断定に見合うものを提示できないまま断定に及んだという疑いもかけられても仕方がなくなるからである。

 心理学用語で準拠枠という言葉がある。その人が経験してきたことが枠組みとなって働き、その人独自の物の見方、考え方が、その枠に沿って生まれる。問題は、現実をそのまま受け容れると、準拠枠が脅かされるとき、現実を自分の準拠枠に合うように歪めて知覚し、自分を守ろうとするというのである。これは再定義と呼ばれる。

 もちろん、これも今、前記状況のなかで、価値中立的に当てはめられることはいうまでもない。対立するような二つの「現実」に対する見方の、どちらにもそれは現れる。だが、逆に言えば、それだからこそ、メディアはその圧倒的影響力を自覚して、その誘発の影響を回避するためにこそ、フェアに徹するべきなのである。何度も書いているように、新型コロナウイルスとワクチンに関する報道でも、薬害の教訓を考えれば、その取り返しのつかない結果招来のリスクとその経験を踏まえ、フェアと慎重さに徹するべきなのであり、むしろその点からもっと政府の姿勢にも警鐘を鳴らすべきだったはずなのだ。

 これは新型コロナの脅威、戦争絶対悪ということを伝えることの正当性とは、本来、抵触しないもののはずである。まるで権威にあぐらをかくように、手放しに「信じろ」という姿勢に、私たちは乗れないという話なのだ。

 同じ顔、姿、声の二人の人物の間に立った、劇中の人物は、多くの場合、最後には「自分こそが本物」という両者の一方が、巧みに繰り出す「証拠」を見抜き、本物を言い当てる。そのプロセスに私たちはこだわらなければならず、それがないままの、選ぶことはできないし、してはならないというだけなのである。たとえ多数派が、「こちらが本物」と指さしたとしても。



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