司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>


 今年5月の裁判員制度開始10年を前に、朝日新聞が裁判員体験者にスポットを当てた企画記事の掲載を始めている。「1番さんと7番さん 51日間の先に」という大きな見出しか躍った4月14日の記事は、5年前に裁判員になった司法試験をチャレンジ中の男性(法廷呼称1番)と、会社員女性(同7番)の二人の体験を通して、裁判員の仕事と携わった人間の意識の、断片を浮き彫りにしている。

 しかし、その内容の印象を率直にいえば、制度推進派の朝日らしい、「よくできた」記事である。オウム真理教元幹部の事件を担当し、法廷でも目立って質問をした、一見して裁判員裁判に対して、「意識レベルの高い」二人を通して語らせる、参加して「よかった」というストーリー。おまけに二人はこれをきっかけに付き合い出し、その後、夫婦に。「1番さん」は、司法試験に合格し弁護士になり、「7番さん」は仕事に戻り、社内で裁判員説明会を開き、同僚に呼びかけたりしている。

 国民の参加への敬遠傾向が止まらない制度にあって、維持・推進派にとって、これほど格好のカップルはいないと思ってしまう。しかし、正直、ここに描かれた「51日間」とその先の二人の姿は、もちろん現実であったとしても、あらかじめ裁判員制度の意義を導き出すために切り取られた、容易されたエピソードという印象が拭えない。

 朝日は、この記事で体験の共有ということをどうしても強調したいらしい。彼らが気軽に離せるのは夫婦だからで、一般的に評議の中身には一生守秘義務が課される。「自分の意見なら、自分の責任で言えるようにしてもいのでは」「そうやって、私も裁判に参加する意義をもっと広めたい」と「7番さん」の女性の言葉で記事は締めくくられている。

 体験が共有されれば、必ずや制度は敬遠されなくなる、という推進派の典型的な希望的観測だが、そのために制度維持にとって都合のいい、意義に対して肯定的な意見が切り取られ、疑問や否定的な声が切り捨てられるのだとすれば、いつまでたっても、制度を推進したい人の思いばかりが支える制度になってしまう。

 この二人が参加した裁判では、「みんなで考えて、考え抜いた」結果、同事件で別の被告がプロの裁判官によって出されていた量計よりも、重い判決を言い渡している。その過程では、こんな文面が登場する。

 「評議室では裁判官に頼り切らず、裁判員同士で声を掛け合った。何人かは有楽町のガード下にも繰り出し、居酒屋で趣味などを語り合った」

 この一文を朝日の記者は、なぜ、ここで挟み込んだのだろうか。裁判官の誘導によらない、まさしく市民が協力して、その声を判決に反映させることが現実化しているということが言いたかったのだろうか。カード下の居酒屋で市民だけで評議の続きをやったとは、さすがに書いておらず、わざわざ「趣味など」とつけ加えているが、本当にそうならば、わざわざここで言及する必要もないことのような気もする。

 かつて日弁連が、制度スタート時に作った裁判員映画のラストシーンで、すべて任務を終えた裁判員たちが裁判所を出て、一人がメンバーみんなをお茶に誘うが、別の一人が「やめておきましょうか」と言い、みなそれに納得して、バラバラに去っていくシーンがあった。映画の描き方には、いろいろと異論もあったけれども、ここは「裁く」という彼らに課せられた任務の重さを逆に伝える効果があったようにみえた。

 朝日の記事は、経験の共有の大事さ、それが制度を支えていく、ということを言いたいばかりに、制度推進派がこれまでもそうであったように、そのことがどうしても「裁く」ことの重みより伝わる形になってしまっている気がしてならない。弁護側の控訴に対して、「市民感覚が覆される」のを恐れ、傍聴に行く二人。しかし、裁判員裁判の意義に触れ、一審を維持した高裁裁判官。一方で弁護士になった彼は、判決確定後の被告人がどうなるかを知らずに量計を導き出したという思いを引きずり、弁護士会の刑事法制委員会のメンバーとして処遇を学ぶのが「せめてもの『義務』」と考えている――。

 どこまでも「意識レベルの高い」人間たちのこだわりのストーリーには、この制度にかかわる、あるべき裁判員像、あるべき模範的参加市民像が切り出されているような気持ちなってくる。量計に対する、責任と後悔というテーマを巧みに希釈して。「裁く」ことの重みを真剣にとらえるからこそ、素人の参加を疑い、プロの職業的自覚に期待する市民たちに対して、あたかも「私たちのようであればできる」「私たちのようになりなさい」と言っているのではないか。

 そして、この先に、記事はこんな言葉を導き出している。

 「犯罪を身近なものとして考えることが、事件のない社会につながる」

 もはや一人の人間が、「裁かれる」という意味から離れ、犯罪抑止という大向こうの意義を引きずり出し、制度と参加市民に当てがおうとする行為は、本当に、制度を敬遠する市民に対して、すぐさま「あなたは事件のない社会を望まないのですか」という言葉が容易されそうな、響きを持つ。

 もとより「意識レベルが高い」と言っても、それはいうまでもなく、裁判員制度の「価値」を信じている意識である。前記意義を含めて、10年経とうとしているこの制度の「価値」に疑問を抱いている、「裁く」ことへの本当に意識を持った市民の目からとらえない、アンフェアさが、相変わらずこの制度には張り付いている。



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