「憲政史上の汚点」。現職の首相による、国会での虚偽答弁と、それをもとに進められることになった、今回の事態について、朝日新聞は1面掲載の論評記事の見出しで、こうした最上級といっていい厳しい表現を使った(12月26日付け朝刊)。しかし、この記事がここで一番伝えようとしているのは、そのことではない。この事態への認識を疑いたくなる、前日の安倍晋三前首相の国会質疑で様子である。
率直に言って、当日の答弁の印象はそれに尽きるといっていい。「桜を見る会」前夜祭への費用補填を認めながら、直接関与したのは秘書、ご本人の国会答弁は秘書の弁をうのみにしただけ。ホテルの明細書を求められても「当事務所にはない」し、改めて入手するという気もない。議員辞職をする考えもない。経った今、「深く深く反省」「心からお詫び申し上げたい」といった人間とは思えない、はぐらかしと事態解明への消極姿勢を、むしろ堂々と示した印象である。
「おわびから始まったはずの弁明がいつの間にか首相時代の口ぶりに戻っていた」。朝日の記事も、こう表現している。同様の印象を持った国民は多かったのではないだろうか。それは、とりもなおさず、前日の記者会見とこの国会に姿を表した彼の目的が、およそ朝日が表現したような事態の深刻さを踏まえたものではないことをうかがわせる。
安倍前首相は、自らの不起訴処分が決まった、このタイミングで形式的な弁明で、この問題に幕引きを図ろうとした。むしろ、それ以上は何もなかったのではないか。つまり、どのように謝罪を形にするのかとか、どんな形で真実を明らかにしようとか、そういうことではなく、いわば謝罪という形を「やった」という事実を作ろうとしたとしかみえないのだ。
安倍前政権以来、「やってる感」という中身が希薄な政治姿勢が横行してきたが、まさに今回も同じような匂いがする。そして、度々指摘してきたことだが、その根底にあるのは、それが「通用する」という国民に対する侮り、あるいは侮られているわれわれ国民である。その結論も同じである。
特に今回も嫌な感じがするのは、法的責任と政治的・道義的責任の扱いである。安倍前首相の立場は、いうまでもなく、この別々の責任を負っている。しかし、彼は自分が不起訴になっていることを、全体の幕引きになんとかつなげようとしているようにみえる。明細書・領収書提出をめぐるやりとりでも、「明細書のなかがどうあれ、検察側の判断は変わらない。明細書を隠さないといけない立場ではない」などとしている。
また、安倍氏は、前夜祭の会費は飲食費の実費であり、それ以外の補填部分は、公職選挙法の寄附禁止から外れる「会場費等」になると、そう印象付けるような発言もしている(もっとも公選法では「専ら政治上の主義又は施策を普及するために行う講習会その他の政治教育のための集会」と限定されており、今回の前夜祭がこれに当たらないのは明白。同199条の2第1項)。
多くの識者は、もちろん法的責任が仮に問われなくても、安倍前首相には重い政治的・道義的責任がある、と言う。しかし、彼は法的責任が問われないことをもって、政治的にも道義的にもこれ以上追及されない、真相解明にも積極的に臨まない(臨まなくてもいい)という口実に使おうとしているように見える。
案の定、彼は会見後、記者団にこれで「説明責任を果たすことができた」と述べたと報じられている。前政権で度々聞かれた「丁寧に」という言葉同様、やはり彼に、説明の中身(説得力と疑問氷解の効果)は関係ない、大事なのは「やった」という既成事実であり、それによって追及をかわす「効果」だけなのである。
政治家の政治責任の果たし方として、辞任は一般的なものといっていい。そして、言うまでもなく、およそ「憲政史上の汚点」という評価までに及ばない失態や政治責任を問われる局面で、多くの政治家が辞任という責任の取り方を選んだ。その評価もさまざまあるかもしれないが、少なくとも安倍前首相の場合、議員を継続したとしても、今回の「汚点」の真相を明らかにする形で、その責任に向き合うということは、今回の会見を見る限り、全く期待できない。
いつからわが国は、こういうことになったのかと思う。かつては起きた事態に対して、政治責任は免れない、として、責任をとらせるお身内がいたように見えた。それが常に国民に透明な決着だったかどうかという疑問はあるが、現在のこの「問わない」=「問わないでも済む」という空気は、さらに悪いといわざるを得ない。そして、私たちが空気を作る側に回っていないのかを、今こそ自問すべきである。 繰り返しになるが、それは「憲政史上の汚点」のようなことでさえ、責任を問わなくても済ましてくれる(それを支持したとしても、選挙に影響しない)、そういう国民である、と、私たちを見ている空気といわざるを得ないのだから。