司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>



 「反社会的勢力」という言葉は、とても危険なものといわなければならない。こう書くと、すぐさま「反社会的」という表現がイメージさせる存在の危険性を連想してしまうかもしれないが、ここで言いたいのはむしろそれ以前の問題である。誰が何を根拠によって、「反社会的」という烙印を押すのか。それによって、この社会の住民は、誰でも危険にさらされることになるからである。

 ところが、こともあろうに、この国の政府は、この烙印の根拠になる言葉の定義が確定できない、というのである。「桜をみる会」への「反社会的勢力」とみられる人物の参加をめぐる問題で、野党議員の質問主意書に対して、この用語について、「あらかじめ限定的、かつ、統一的に定義することは困難」という答弁書を閣議決定したのだ。

 社会から排除されるべき犯罪が、実行者の罪として確定されるには、社会的規範である法に照らした、裁判という手続きという厳格な過程を減ることを考えると、社会的排除に使われる、この言葉の扱いの粗雑さは、どういうことだろう。「反社会的勢力」を排除のための烙印とするのであれば、少なくとも厳格な定義がなければならないはず。そして、逆に本当に「あらかじめ限定的に、かつ、統一的に定義することは困難」であるというならば、この言葉による烙印は、絶対に押してはならないといわなければならない。

 菅官房長官は会見で、定義の固定化による取り締まりの困難化に言及したというが、見方を変えれば、恣意的な取り締まりを認めろ、判断はこちらに任せてくれ、と言っているのと同じである。こんな理屈があるだろうか。あったことをなかったことにするのを許すのは、同時になかったことをあることにするのを許すのに繋がる。

 しかも、今回については、さすがに状況的に政権側の心底がみえみえである。政府は2007年に「暴力、威力と詐欺的手法を駆使して経済的利益を追求する集団または個人」と、ちゃんと定義した「指針」を出している。招待者名簿は廃棄、照らすべき定義がありながら、属性はあいまいにする。いずれも政権のために、追及をかわし、責任を逃れようとする目的への、無理が、完全に見えてしまっているのである。

 「当座の責任逃れのために、ご都合主義で言葉の定義をゆがめる。その先にあるのは政治不信だけだと、首相は知るべきである」。この問題を取り上げた12月13日付け朝日新聞「社説」は、こう締めくくった。その通りだと思うが、後段については、むしろその通りであればいいと願う。それは首相の認識もさることながら、われわれにとっての「政治不信」ということ、そのものについてである。私たち国民は、今回の事態について、本当にこの政権に危機感を持ち、それを交代させるだけの、強い「政治不信」につなげるのだろうか。

 世論調査では、まだこの政権に半数くらいの国民が支持していることが伝えられている。その最大の理由がこの政権の「代わりがいない」ということであるという解釈もしきりと聞こえてくる。民主党政権の「失敗」から、野党に期待できないというだけでなく、与党支持者や与党内のなかでも「安倍政権」に代わるものという本格的な動きには今のところつながらない、という状況である。

 つまり、問題なのは危機感のレベルなのだ。そして、そのレベルを見透かしている、あるいは侮ればこそ、政府は、あれほどみえみえの無理を平然と繰り出しているというべきである。大丈夫だ、臨時国会が終わり、年が明ければ潮目も変わる、凌ぎ切れるというヨミをもって、これほど、私たちにとって危険な言葉が、粗雑な扱いがされているのに。

 もはやわが国は、こういうレベルまで来た――。そういう危機感を、私たちが選んだ代表だけでなく、私たちがまず、持たなければならないはずなのである。



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