司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

  「ナショナリズムに目を向けないで、インターナショナリズムはあり得ない」ということを、かつて国連など国際的な舞台で活躍する法律家が言うのをよく耳にした。反対語という関係に位置付けられる、この二つの言葉にあって、彼がいうことが矛盾でも何でもないのは、一つにはたとえそれが国連という舞台であっても、ナショナリズムがぶつかりあうという現実を、彼が間近で見てきたことと同時に、国際協調ということそのものが、乗り越えるべきナショナリズムをよくよく理解していなければならないということの、説得力によるものととれた。

 

 そして、これはナショナリズムに依拠する側に対して、自らが乗り越えようとする側に、どう理解されるか、どう見られているのかという現実的な問題があることへの自覚を促しているものにもとれた。国際協調を口にするならば、まず自らが、そのことに敏感でなければ、実はそこから先は、「あり得ない」のだと。

 

 昨年11月25日の参院決算委員会で安倍晋三首相は、中国の防空識別圏設置について、「不測の事態を招きかねない」という強い懸念を示した。この「不測の事態」が具体的にどういうものなのかの説明がなくても、多くの国民の頭には、その先に「戦争」という二文字が浮かんだと思う。しかし、この「不測の事態」が「戦争」につながるという現実を、安倍首相は本当の意味で、どこまで理解しているのだろうか、ということを率直に感じてしまうのである。

 

 その思いを改めて強くさせる論稿を目にすることになった。3月27日付け朝日新聞朝刊、オピニオン面掲載の、中東研究家・酒井啓子氏の一文である(「日本不信、誤解で済まない」)。彼女はこのなかで、戦争が「こんなはずしゃなかった」という様々な要因で起こってきたことを分かりやすく説明したうえで、今、世界が東アジア情勢に危惧するのは、まさに「不測の事態」だとしている。最近の海外論調が懸念するのは、いずれも戦争を希望していない日中間で起こる「偶発的な衝突」から始まる戦争である、ということだ。そして、彼女はこう続ける。

 

 「偶発的な衝突の原因として危険視されているのは、関係諸国のナショナリズムに突き動かされた非合理的な行動だ。そしてその懸念は、日本に向けられる。安倍総理の靖国参拝、村山談話見直し発言、ダボス会議での第1次世界大戦への間違った言及などがそれだ。こうした日本の行動を見ると、むしろ関係悪化を挑発しているのは日本ではないか、というのが、国際社会の反応だ」

 

 彼女は、安倍政権やメディアが発信している「国際社会の誤解を解く」と姿勢の危険性にも言及する。対日危惧「誤解」論は、第二次大戦以降、国際社会に定着した日本への信頼感が、「富国はしても強兵しない国」に対して醸成されてきた事実に目をつぶっていると指摘している。国際社会の「危惧」とは、こうした「過去の平和日本の変質」に向けられているものだと。戦後、対米追随と言われながらも、日本の外交がどれも犠牲にすることなく追求してきた、対米、対アジア、対国連外交の、時に矛盾する三つの目的。国際社会との共生を、武力を用いず確立することを目指した姿勢。国連憲章を体現しているはずの、「国際社会に信頼された日本像」に自身を持たずに自ら崩そうしている――。

 

 実に的確な指摘だと思う。それはまさに「積極的平和主義」とか、「不測の事態」への懸念を口にしながら、実はわが国への信頼感が何によって築かれ、そして今の日本にどんな視線が向けられているのかに目をつぶる、国際協調とは相容れない、安倍政権・日本の偏狭的なナショナリズムの姿である。

 

 「戦争」という言葉が使われると、何やらそこまでの距離感の方が強調されるムードが、この社会にはある。法曹界のなかにも、この言葉に現実をつなげる論調を、すぐさま荒唐無稽なことのように片付ける人たちもいる。だが、今の日本の見え方が、どれだけの日本が築いてきた過去の信頼の損失につながり、どれだけ「戦争」という最悪な事態を引き寄せているのか、そのことに私たちは、もっと危機感を持つべきではないだろうか。



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