司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

小川敏夫法相が、5月11日に母校立教大学で行われたシンポジウムの講演で発言した内容が話題になっている。報道によれば、彼は冗談交じりに、こんな風に話したとされる。

 「(裁判官をしていた)3年間は退屈でもったいなかったが、選挙の際、『元裁判官』ということで大変に評価が高く、全てを取り返した」

 これを報じた翌12日の読売新聞朝刊は、「国民に裁判員への負担を求める中、裁判官の仕事を軽んじ、選挙の際に肩書を利用したとの批判を浴びそうだ」としている。しかし、選挙での肩書利用は候補者が誰でもやっていることは多くの国民が分かっていることであり、今さらそのこと自体が批判されるというほど話ではないようにも思える。むしろ、それをいうならば、現法相の地位にある人物が、かような意識で裁判官の職についていたという事実、さらにいかに母校の講演で、気を許したにせよ、こうした発言をした翌日の新聞紙面を想像できないという事実からみた、彼個人の資質が問われる、という方が、表現としてはふさわしい。

 ただ、そのことは別として、この法相発言には、もう一つ注目しておきたいところがある。「元裁判官」に対する高い評価を彼が実感している点だ。前出「読売」によれば、彼は「裁判官は責任があって大変、大切な職業」と前置きした上で、1998年の参院選に立候補した当時を振り返って、次のように述べたとしている。

 「元裁判官のひと言で、清潔で良識があると(有権者の)皆さんに思ってもらえる。それだけ信用が高いということだ」

 元職に限定する意味は、あまりないだろう。要するに、いかに「裁判官」という仕事が、良識人、あるいは良識ある法曹として、国民の信頼を得ているか、それを彼が実感したという事実が、ここに伝えられているということになる。

 しかし、翻って考えると、国民の司法への直接参加を求めている今回の「改革」は、こうした国民のなかにある裁判官への信頼というものを、どうとらえているのか不透明な部分がある。強制までして、国民の常識を導入しなければならない司法とは、ある意味、国民が信頼し託す気持ちなっている司法ではないことを意味しているとみることができてしまう。しかも、「統治客体意識からの脱却」という司法制度改革審議会意見書の描き方からすれば、税金を投入し、司法を信頼して託してきたことそのものが、あたかも「非民主主義」な「お任せ体質」と批判されていることになる。

 一方で、実は「国民の参加」によって、司法の判断が民意に「ゆだねられた」わけではない。参審制の変形である裁判員制度では、判断の全行程に職業裁判官が関与し、控訴審では職業裁判官のみが判断する。目的は、むしろ国民に責任を共有させる、というところにあるとみるべきだ。もちろん、それが裁判批判、判決批判をかわす口実になる。だからこそ、「国民参加」に当初、頭から反対していた裁判所は、この制度を受け入れたとみることができる。民意への大いなる理解があった、というとらえ方は、必ずしも当たっているとはいえない。

 ここに、国民の一定の信頼を「お任せ」と批判的にくくってまで、取りいれられたこの制度の、異様な現実がある。そして、もっと異様に感じるのは、裁かれる側のことよりも、裁く国民を目いっぱい持ち上げて気を遣い、裁判にお招きしている形ばかりが伝えられ、実は国民が体質的に批判され、国家に都合のいい意識変革が迫られていることが伝えられていない、いわば裁判官に対する国民の信頼が行き場を失っている、今のわが国の現状である。

 いみじくも前記「読売」の記事は、国民に裁判員への負担を強いるなか、仕事を軽んじる裁判官がいるのはけしからん、ということを言っている。ただ、現職法相とはいえ、一「元裁判官」の心得違いによるものよりも、裁判員制度自体は、もっと本質的に司法への国民の信頼を裏切っているとみることができなくない。



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