司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>




 ある日、突如として浮上した感染症蔓延の危険によって、社会生活が一変する――。コロナ禍以前、こんな未来を想定できたこの国の住人は、ほとんどいなかったのではないだろうか。海外の首脳をはじめ、政治家たちが、この状況を「戦争」に例えたことに、その不適切さを指摘する論評もあったが(「朝日新聞」社説)  、とりわけ大規模な「自由」の制約が、押し寄せるという点をとれば、「戦時」を連想したくなることは理解できる。

 今回の「緊急事態宣言」が影響した憲法上の「自由」を列挙すると恐ろしい。「経済活動の自由」(憲法22条1項「職業選択の自由」、29条「財産権」)、「移動の自由」(22条1、2項)、「集会の自由」(「表現の自由」21条1項)、「幸福追求権」(13条)。

 いくつかの意味で、私たちが今、こだわるべきなのは、これら「自由」への制約を、今回、私たちがどのように受け容れたのかである。私たちは、「強制」という建て前ではなく、国家から自粛を要請され、それを受け容れた形になった。しかし、「自粛要請」の言葉の不自然さを指摘する声があったように、あくまで「自粛」は自律した選択の「自由」の余地があるものであり、国家に「要請」されるべきかという、引っかかりはある。

 しかし、現実をみれば、このこだわりが無意味化するほど、私たちは、これを事実上の「強制」のように受け容れたのではなかったか。つまり、国家の「要請」に「強制的」な効果をもたせたのは、私たち社会の側でもあった、という事実である。

 県をまたぐ移動の「自粛」を止める形を、「解除」「解禁」とマスコミが呼ぶことについて、私たち社会は既に抵抗なく受け容れているように見える。そればかりではない。「緊急事態宣言」下、「自粛警察」と呼ばれるような、相互監視まで出現した。マスク着用は、得体の知れない感染症への恐怖だけでなく、しないわけにはいかない社会の目に圧力から迫られたと感じた人も少なくないはずだ。

 しかも、こうした効果をもたらす「緊急事態宣言」を、早期に出すべきという待望論すらあり、現在も、もっとはやければよかった、とする論調まである。とにかく感染の危険に基づく緊急性に基づけば、このことに抵抗感なくなるし、かつ、その結果の「自粛」によって感染を抑えられたという「成果」を強調されれば、よりそれでよかったと確信する方向になるだろう。

 ただ、前記「自由」の制約の現実からいうと、どういうことになるか。権力からすれば、「自粛要請」が「強制」に代わる、自由の制約を伴う、一定の「強制的」効果を生む実績を与え、私たち社会からすれば、こうした事態において、「自由」の制約、人権あるいは私権の問題を問わない、という前例を作ったことになる。

 佐伯啓思・京都大学名誉教授が、6月27日付け「朝日新聞」のオピニオン面で次のように指摘している。

 「今回、世論もメディアも、政府に対して、はやく『緊急事態宣言』を出すよう要求していたのである。ついでにすえば、普段あれほど『人権』や『私権』を唱える野党さえも、国家権力の発動を唱えていたのである。強権発動をためらっていたのは自民党と政府の方であった」

 「これを指して、日本の世論もメディアも野党も、なかなかしっかりと近代国家の論理を理解している、などというべきだろうか。私にはそうは思えない。今回の緊急事態宣言は、もちろん一時的なものであり、しかも私権の法的制限を含まない『自粛要請』であった。しかし、真に深刻な緊急事態(自然災害、感染症、戦争など)の可能性はないわけではない」

 「その時に、憲法との整合性を一体どうつけるのか、憲法を超える主催の発動を必要とするような緊急事態(例外状況)を憲法にどのように書き込むのか、といった緊急を要するテーマに、野党もまたほとんどのメディアもいっさい触れようとしないからである」

 一方、志田陽子武蔵野美術大学教授は、緊急事態宣言下に、別の視点から、危機の言説に押し流されず、「自由」を確保するため、「不要な自己検閲を強いる圧力に転じることのないよう」注視しながらの、「自律」(自律的な自己判断)の必要性を強調していた。

 そのなかで「仮に今回の緊急事態宣言に便乗して、物理的な近距離接触とは関係のない言論までが制約されたなら、これに当たることになり、憲法違反となることは間違いない」とする一方で、「各人が自粛の意味を理解せずに、自粛疲れから感染を拡大させる行動をとってしまうと、より強力な方策がとられる可能性が高まる。あるいは、『今回の緊急事態宣言と措置では目的を達することができないので、憲法改正によってより強力な緊急事態法制を実施できるようにしよう』という議論に結び付きやすくなる。これが危険なのである」とした(「緊急事態宣言と『集会の自由』―― 『表現の自由』のために今『自粛』を呼びかける理由」〈Yahoo news〉)。

 今回作った(作っている)前例は、「自由」の制約について、国家権力による、次のステップへの口実や、入口になる危険性があるのである。佐伯氏の指摘の意図とは違うが、憲法改正論議の入口に利用されることにも、それこそ警戒感を伴った、国民の自律的判断が必要なはずである。

 私たちの社会は、このことに今、どこまで気付いているのだろうか。コロナ禍での「自由」の制約に対して、私たち社会は、どのようであったのか。コロナ感染対策の成果だけに目を奪われず、そのことを教訓としても確認しておく必要がある。



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