〈裁判手続きに関するあるべき議論〉
司法の国民的基盤の確立ということが、最高裁大法廷判決がいうように裁判員制度の立法目的であるというのであれば、その根拠となる事実すなわち現在の裁判官のみによる裁判のどこが国民的基盤に欠けるのか、裁判員制度の対象事件は重大な刑事裁判に限られるところ、その他の裁判官裁判は国民が参加しなくとも国民的基盤は確立されているというのか、裁判員が参加すれば従来の裁判官裁判よりも明らかに裁判は国民的基盤が確立するとどうしていえるのか、その証明はいかにしてなし得るのか、なし得ないのかなどの疑問は当然に湧いてくるであろう。
前記の西野教授はさらに、この国民的基盤よりももっと根源的な問題として、裁判制度の大改革法である裁判員法制定そのものについて、「現行の刑事裁判の問題点、その原因、その対策をそもそも議論していない……またいまの刑事裁判のシステムには、どこにどのような問題がどれほどあるのか、その原因は何であるのか、その不都合を克服するにはどのような対応をとればよいのか、それでどの程度の成果が予期できるのか、という根本的な問題がまったく議論されておりません」、さらに「裁判員制度を採用すると、刑事裁判のどこが、なぜ、どうよくなるのかという議論もされておりません」「一国の刑事司法のこれからのありようを決めようというのに、現状も、その原因も対策の効果のほども全然議論しなかったという、これほど『珍妙』な審議会もないでしょう」と述べる(前掲書p57以下)。
そのような珍妙な立法過程の中で突如登場したのが、美辞的、民主的装いの「司法への国民的基盤の確立」という正体不明の言葉であったことは間違いがない。
〈通用しなかった騙しのテクニック〉
司法ウォッチ編集長の河野真樹氏は、弁護士観察日記(2017.6)において、「国民的基盤」論の危うい匂いを嗅ぎ当てている。その国民的基盤の言葉のなかに国民の意思がどこまで汲み取られているのか見えないことの危うさの指摘である。「国民」を冠した政策決定や主張には疑ってかかった方がよいようなものが存在するという。この裁判員制度について言われる「国民的基盤」は、その疑ってかかった方がよい典型である。
国会は、この怪しげな言葉にまんまと引っ掛けられて、ほぼ全会一致で裁判員法を成立させてしまった。施行直前になってその怪しさに気が付いたのか、与野党の一部議員が施行に待ったをかけようとしたが、時すでに遅しであった。
この制度については、最高裁もマスコミも、今になって、裁判員候補者の出頭率が低下している、辞退率が上がっている、これでは裁判員を参加させる意義が失われると慌てているのが現状である。国民的基盤の確立などという訳の分からない言葉に踊らされて成立した制度であり、参加を義務付けられる多くの国民の拒絶反応を無視して施行されたものであれば、うまくいかないのはむしろ当然である。騙しのテクニックは結局通用しなかったのである。
さればどうすればよいか。これから始まる改正後3年の検討時期を利用して、司法の本質、刑事裁判の目的、国民の意向等を深く考察するために、一時施行を停止し、結論ありきではない前提で、司法全般を総検討すべきだと思う。