再審について、まず根本的に求められているのは、司法の謙虚さということに尽きるのではないか。再審開始を認めた地裁と高裁の判断を差し戻すこともなく、取り消す異例の対応を示した最高裁の姿勢に、率直にそう思う。
確定判決を簡単に覆すことが、法的な安定性を欠いたり、司法への信頼性を喪失させたりするというデメリットがあることは理解できる。しかし、今回の対応にそんな優先すべきメリットがあるようには、とても思えない。いうまでもなく、一方のハカリに乗っかっているのは、被告人とされた人間の、無罪の可能性なのである。
さらにいえば、妙な言い方になるが、これは彼らが認めることも、あるいは社会が容認することもないだろうが(あっていいわけもないが)、権威を維持するための、いわばメンツを保つといった、保身レベルのことを優先させたという話を、いったん被せてみることだってできるかもしれない。
しかし、そうだとして、今回の対応は最高裁あるいは司法の権威にとって、プラスであろうか。最初の再審請求から既に三つの裁判体が再審開始決定を出しているという事実。しかも、第三次については、今回が請求審での地裁、高裁の開始決定を覆した初の例とされている。再審の必要性を結論付けた司法の決定を省みず、尊重しない姿勢が、本当に、司法の権威を守ることになるとは到底思えない。
司法全体の権威よりも、むしろ覆せる最高裁の権威にこだわったのだろうか。早くも再審開始決定での下級審への「委縮効果」までささやかれるのも、無理ないところである。
今回の件を報じる各紙とも、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の原則が再審にも適用されるとした、有名な1975年の「白鳥決定」を引用している。そもそも判決確定前後で、この原則の価値が変わり、「疑わしい」という無罪の可能性への目線が変わったり、無罪を出すということ以前に、検証するハードルが上がったりすることがあるとすれば、前記メンツ保つためくらいしか理解しようがない。本来、そうした原則を貫き、過去の誤った可能性のある司法判断に謙虚に向き合い、検証する姿勢を社会に示すことこそ、結果的に司法の権威に繋がるように思えるからだ。
既に今回の対応は、「白鳥決定」の逸脱であり、再審の門が狭められる、最初の兆候ではないか、という見方がメディアでもなされているが、そうとられることが司法の信頼につながると考えているのかも問いたくなる。
最高裁は、今回、高裁の証拠評価を否定する理由のなかで、遺体そのものではなく写真をもとにした新鑑定の証明力を問題視し、不自然な変遷がある、共犯とされた関係者らの供述を「相互に支え合っている」などとして「信用性は強固」と断定した。脆弱な証拠構造のうえに乗った確定判決でも、簡単に覆らせない前例、あるいはこの程度の脆弱さを伴った証拠のうえの確定判決でも再審の対象にならないという前例をつくることにこだわったのではないか、という見方が出ている。
まさに「白鳥決定」の振り戻し、再審の法整備を求める流れへの逆行ととられても仕方がない。
刑訴法435条には再審請求が、被告人の「利益のために」することができると定め、その条件を列挙している。これを確定判決の安定性を守るというバイアスで解釈すれば、そもそもがそれは厳格に狭められて解釈されかねない。しかし、死刑再審無罪を出している国の司法が優先すべきは、むしろそのバイアスに引きずられない、まさに「白鳥決定」が示した「被告人の利益」を踏まえ、自らを疑う慎重さと謙虚さはないだろうか。それこそ、司法が今、示し、守るべき本当の権威のはずである。