およそ多くの人が一生関わらない刑事手続きについて、大衆の関心や認知度が低いことについては、現実的に致し方ない面はあるが、その中にあって、黙秘権というものの存在自体は、比較的周知されているといえるだろう。いうまでもなく、ドラマや小説に登場することが、この権利をイメージさせる大きな要因になっているといえるからだ。
しかし、それが実際に存在しているわが国にあって、どのような運用の現実があるかということになると、それは大方、他の刑事手続き同様の距離感があるテーマと言っていいだろう。まして、この権利が、この国で果たして権利足り得ているのか、ということが問われる現実にあることは、多くの人の関心と認識の外であり続けてきたようにとれるのである。
日本国憲法は第8条1項で「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」として、黙秘権を認めている。ところが、その一方で、刑事訴訟法198条1項で、検察官、検察事務官、司法警察職員が犯罪捜査に当たって必要があるときは、被疑者の出頭を求め、取り調べができる、と規定。その但し書きには、被疑者が逮捕、拘留されている場合を除き、被疑者の出頭拒否や出頭後の退去を認めている。
同条但し書きの反対解釈が、黙秘権との間で議論を生み、さらにいえば、我が国にあって、その権利性の足を引っ張ってきた根拠ともいえる、被疑者の取調受忍義務である。そもそもが国家権力と個人(被疑者)の力の不均衡化が存在する中での取り調べ。そこでの人権保障と適正な取り調べが常に問題になってきた中で、取り調べの録音録画が認められても、弁護人の立ち合いが認められていない日本の現実からは、前記取調受忍義務がある限り、黙秘権は実質的に保証されない、という専門家の意見もある。
こうした取り調べの実態が何を生み出すか。そのことを明らかにするような検察の問題事例が、近年、報じられている。その中で、7月18日、黙秘権を行使したのに、横浜地検の検察官から長時間にわたり、侮辱的な取り調べを受けた元弁護士が、国に損害賠償を求めた訴訟で、東京地裁が取り調べでの人格権侵害を認め、賠償を認める判決を言い渡した。その点は、「黙秘を解いて何らかの供述をさせようとしたもの」と断じ、「黙秘権保障の趣旨に反する」ともした。
しかし、その一方で、「説得」と称して、56時間も続いたとされる取り調べ自体は、違法とされなかった。つまり、その意味で、日本の現状は、諸外国に比べても黙秘権の権利としての保障よりも、明らかに捜査偏重の現実が存在しており、そこにいまだ司法も踏み込んでいないことになる。信濃毎日新聞の社説が、次のように明快に指摘している。
「黙秘の意思を示しても取り調べが延々と続く現状は、黙秘県が保障されていると言えるのか。相次ぐ裁判や、取り調べを拒む権利の実現に動く弁護士らの問題提起を受け止め、刑事司法のあり方について広く議論を興したい」
そこで、気になってくるのは、やはり冒頭の黙秘権に対する大衆の距離感が生んでする認識である。大衆の黙秘権に対するイメージは、その源がドラマ等のフィクションがメインだけに、必ずしも正当な権力対抗性や不当捜査を連想させるものではない。むしろ、捜査をメインの舞台として描かれているドラマにあっては、むしろしばしば正当な捜査の足を引っ張るのが、黙秘権であったり、そこに登場する弁護士であったりする。
捜査側に後々不利になる供述調書を取らせないなど、黙秘権行使のメリットを指摘する弁護士の解説はネットなどにも流れているが、そもそも大衆の中には、「本当に犯罪に手を染めていないのであれば、正直に話していいはず」とか、「話さないのはやましいところがあるからだ」といった、これまた冤罪を生み出してきた日本の捜査の現状への認識が前提とならず、適正な捜査を前提にした性善説をもとにした見方も根強いようにとれる。
むしろそうだとすれば、それこそが現状を延々と続ける捜査側にとって、最も都合のいい環境ともいえる。前記社説の提案通り、刑事司法の在り方を見直す議論を興すために何が必要なのか、という意味で、そのことも考える必要があるように思える。