司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>




 

 「君の選択肢は二つ。悪魔として私に殺されるか。人として私に飼われるか。飼うならちゃんと餌は上げるよ」。こう言われた男は尋ねる。「餌って朝飯はどんなの?」「うーん。食パンにバターとジャム塗ってサラダ、コーヒー。あとデザートかな」。来る日も来る日も、何も付けていない食パンしか食べて来なかった男は、ぼそっと答える。「最高じゃないですか」――。

 話題の大人気アニメ「チェンソーマン」の第1回、主人公が前記「提案」を受け容れて、「公安」の協力者となる印象的なシーンでのやりとりである。お叱りを受けるかもしれないが、このやり取りに、最近、社会が問題にし始めている「闇バイト」をつい連想してしまった。もちろん設定が根本的に違うことは十分承知しているつもりだし、ましてこの作品の面白さに注目している一人なので、そのイメージを悪くする意図は毛頭ない。

 ただ、このシーンに紐付けて、連想してしまうのは、「提案」をする側の存在もさることながら、それを受け容れる側の「ハードル」の低さとそれを生み出している現実が、「闇バイト」の現実に大きな意味を持っているのではないか、と思うからだ。

 SNS上の「闇バイト」に応募して、強盗などの犯罪に手を染めることなるケースが後を絶たない。政府の緊急対策では、AIも駆使した募集投稿の自動検知、SNS事業者への削除要請強化も示されている。元の指示役の動きを断てば、実行犯を集められなくなるというのは、犯罪の抑止という意味では、もちろん理解できる。

 しかし、その一方で、無視できないのは、この犯罪を成り立たせてしまっている若者側の「ニーズ」である。多くは、「高額バイト」のSNS上の募集メッセージに、若者たちが応募する関係。勧誘には、「安全」「簡単」など普通のバイトを装うものもある一方で、「闇バイト」の犯罪性、さらには「使い捨てにされる」とか「一度手を染めると抜け出せない」といった情報に、応募する若者たちが触れていないとも考えにくい。

 要は、多くの場合、受ける若者側が、それをある程度分かったうえで、あえて危ない橋を渡っても、それを引き受けたいと思う「ニーズ」の存在が、推認されてしまう、ということなのだ。逮捕されないだろうとか、発覚しないだろうと思わせる甘い言葉の勧誘に騙された、という側面だけでなく、彼らがなぜ、確信的に危ない橋を渡ろうとしているのか、なぜ、そこまで追い詰められているのか、に社会はもっと注目すべきではないのか、と思えるのだ。

 その若さで犯罪に手を染めることになる、その失うものの大きさを、教育を含めたさまざまな手段で、若者たちに伝え続けるべきなのは当然だ。ただ、それと同時に、彼らが危ない橋を渡っても、仮に成功確率が低いと分かっていても、それに一か八かで突き進むのであれば、その原因に踏み込む必要はないか。

 有り体に言えば、失うべきものの大きさを分かっていても、犯罪に突き進むことに、そのリスクをとった価値を見出している可能性がある彼らには、失うべきものの大きさをより伝えるだけではなく、その犯罪につながる、提案や勧誘、あるいは誘惑を拒絶できるだけの、人生や生活につながる「価値」の提示を考えていくべきではないだろうか。

 就労の問題や人間関係を含めて、彼らをその選択に至らしめた、個人個人の背景に踏み込み、社会の何が彼らをしてその境地にまで追い詰めたのか。非常に手のかかる、細やかな検証が必要になってきているように思える。規制強化や締め出し、さらに「ダメなものはダメ」式の理解だけを推し進めるやり方では、「来る日も来る日も」繰り返された日常から脱するために、「闇バイト」に自ら「飼われ」ようとする若者たちが抱えた、根本的な病巣は残るような気がしてならないのである。



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