「マスク社会」と化している日本の先行きはどうなるのであろうか――。「人との距離を十分に取れば、屋外での着用は必ずしも必要がない」。5月11日の記者会見での松野博一官房長官の発言で、政府からようやく緩和方向のメッセージが伝えられたかと思えば、翌12日には岸田文雄首相が衆院厚生労働委員会で「今の段階での緩和は現実的でない」と、まるで「火消し」に回る対応。
ところが、その翌日13日に民放のテレビ番組で首相は、コロナ感染状況を見極め、来月にも行動制限を緩和する方針を示たうえで、マスク着用にも「どこまで緩和できるかを考える」と発言し、マスク着用緩和の可能性に初めて言及したとメディアに報じられた。
緩和を先延ばしにしたいという意向だけは伝わるが、その根拠を国民はどう理解できているのだろうか。前政権の教訓を踏まえ、コロナ対策ではひたすら政権維持のために、「安全運転」を心掛けている岸田首相の姿と理解されても仕方がない。
そもそも厚生労働省のホームページでは、既に昨年から熱中症予防に関係して、屋外で人と2メートル以上の距離を確保できる場合、マスクを外すことをむしろ推奨している。松野官房長発言は、首相があえて「火消し」に回らなければならないものではないのである。迷走すればするほど、マスク着用根拠の薄弱さとして国民には伝わりかねないし、ワクチン行政も含めて、医学的根拠から導かれるものとは別の「必要性」に迫られている結果に見えるだろう。そのことを首相は、どこまで理解しているのだろうか。
しかし、むしろもっと気持ちが悪いのは、この「マスク社会」を支えている私たち国民の側ではないか。コロナ禍によって、見ることになった、この社会の住人たちの、根拠よりも恐怖で支配されているような「予防信仰」の現実である。屋内外を問わず、依然、マスクを外せない、外さない、この社会の住人たちには、そもそも厚労省のお達しも届いていない。もはや耳や目に入らないのかもしれない。
いや、通勤電車内で「三密」、飲食中のマスク外し、アクリル板での遮断をはじめ、そもそも私たちは、根拠への疑問を封印し、それとは別次元で、コロナへの恐怖だけで忠実に「効果」の信仰者になろうとしてきたのではないか。マスクだけではない。ワクチン接種にしてもブレークスルー感染の現実と予報効果をどう考えるのか、そこがあいまいなまま、時に強調されてきた重症化回避効果。その時々に識者や政府関係者のいう根拠がぶれるなかで、とにかく打たなければならないというムードに押されて、接種回数を重ねた国民が沢山いたのではないか。
あれほど恐れた医療崩壊のリスクはどうなり、死亡率はどこまで低下したのか、なぜ、ここまで2類から5類への議論は進まず、一向に治療薬がこの問題の「出口」とならないのか。こんな疑問が依然封印されたまま、私たちの社会の多くの住人は、子どもを含めたさらなるワクチン接種を勧められている現実を、マスク同様、恐怖によって支配されてきた「信仰」によって受け容れようとしていないか。
コロナ禍をめぐる、いわゆる「自粛」でも明らかになったのは、この国の住人たちの、まるで「強制化」を無用化するような、自己抑制に盲信する姿である。権力による「強制化」をめぐり、権力側が懸念するのは、諸外国では当然大衆の反発、反対運動だが、わが国ではむしろ「強制化効果」が権力の想定を超えて進むことの方ではないか、と皮肉った人がいた。「自粛警察」などをみても、相互監視と同調圧力社会へ突き進む危険性を、われわれはむしろ注意しなければならない社会に暮らしているのではないか。
リスク回避のために、大衆は少なくとも出来る限りの選択をし、今やれる範囲のことをやってきただけではないか、という反論も聞こえて来そうである。しかし、それはフェアな判断根拠の提示を求めに、国民自身がそれを判断することを回避、あるいは放棄していい理由にはならない。むしろ、これはこの国の国民にとっての恐ろしい前例であり、兆候とみるべきなのである。
この「マスク社会」の現実からみえる、本当の懸念はそちらの方である。前記政権の迷走は、もちろん彼らの根拠性に対する姿勢を問われて当然だが、本当に問われるべきは、根拠性をとことん問えない、われわれの姿勢であるように思えてならない。