喧嘩を売ってきたものと売られたもの。最初に力に訴えてきたものは、もちろん責められていい。だが、責められるべきその相手を徹底的に叩きのめし、戦意を喪失させるまで、周囲が喧嘩を売られた側に武器を与える。まずは、とにかくお互いに殴り合うのをやめろ、というのではなく。こんな介入の仕方は、果たして戦いを終わらせるのに最善の方法だろうか。
ロシアがウクライナに侵攻して1年。ウクライナは徹底抗戦の姿勢を崩さず、その求めに応じて、さらなる軍事支援を行おうとしている。しかし、ロシア側も「祖国防衛」として、この戦いの正当性を主張し、引きさがる気配はない。一方的な軍事侵略国の勝利では終わらせられない、という西側諸国の正義の理屈からすれば、この戦いは、ロシアが侵攻を断念し、敗北するまで続けられることになる。その不確実な状況の中で、確実に人の命が奪われていく。
「欧米が軍事支援を続けるから、戦争が終結しない」。こんな見方には、すかさず前記正義の理屈から、「侵略者の味方をするのか」という反論が被せられる。「防衛」のための正義戦い。しかし、多くの国家間戦争がそうであるように、「防衛」は当事国の掲げる常套句であり、今回も例外ではない。気が付けば、他に手段はない、仕方がないといわんばかりの、戦争という手段の「常識化」がまかり通っているようにみえる。
「領土」を守るということが、金科玉条のごとく、掲げられる。国際秩序や国家・人民としての威信といったことも紐付けられる。しかし、その話のなかで、人命のプライオリティは、いつもぼやけている。そして、そこに結局用意されているのは、国土を守るのは国民で、その国民が命を犠牲にするのは当然、という理屈である。国民が命をかけた「防衛戦争」は認められる、と。そして、この発想に立つ限り、戦争という手段の「常識化」は回避できない。
「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」(日本国憲法9条1項)ことを掲げ、平和主義を国是としているはずのわが国の政府も大手メディアも、ウクライナ側の徹底抗戦の「正義」の前に、腰が引けているようにみえる。
政府は欧米の軍事支援拡大に合わせ、防弾チョッキや防護マスクを送り、和平・停戦への貢献ではなく、徹底抗戦の「正義」の側についている。もっとも9条を目の敵にし、なんとか改変したいと考えている方々からすれば、むしろわが国の「防衛戦争」シフトへの機会作りや口実化の方が、9条へのこだわりを遥かに上回っていてもおかしくない。
大手メディアは、ウクライナへの非軍事的な「支援」や対ロ制裁網確立への貢献、難民対策などに言及するが(2月25日付け朝日新聞「社説」)、停戦仲介への努力やその道筋などには触れない。やはり、国民の命が確実に犠牲になる、ウクライナによる「正義」の徹底抗戦を見守る立場は変わらない。
ウクライナの「徹底抗戦」の正義を掲げるものは、「この戦争を終わらせられるのはプーチンだけだ」という。戦争の先行きは不透明でも、国家に駆り出せされた両者の民衆と、戦場となった国土に住む住民の命が奪われ続ける戦争の現実を、より変えられるのは、もはや「停戦」だけである。
日本が戦った先の戦争でも、日本は「正義」を掲げ、多くの命を失い、国土が焦土と化しても「徹底抗戦」に突き進もうとしたが、それは原爆投下によってようやく止まった。もちろん本土決戦があのまま行われていれば、さらに大きな被害をこの国と国民は被っていたことを、われわれは知っている。
喧嘩の責任はともかく、とにかく殴り合うのをやめろと割って入る役を担うものがいなければ、今、確実に人は死に続ける。たとえ「戦争」という手段が常識化している世界にあっても、本当は日本こそがその役に相応しく、また、そういう自覚を持っても不思議ではないような気持ちになる。
残念ながら、日本の政治主導者は、それよりも米国と歩調を合わせるべき、という自覚の方が、はるかに上回っているようではあるが、戦争継続で確実に死ぬ側になる、各国の民衆の視点こそ、戦争という手段が「常識化」した世界を逆転させる最後の砦というべきである。