司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 日本維新の会が、3月30日に開いた第1回党大会で綱領を採択したことが報じられている。その基本的な考え方の第一に掲げられたのは、以下の文面だった。

 「日本を孤立と軽蔑の対象に貶め、絶対平和という非現実的な共同幻想を押しつけた元凶である占領憲法を大幅に改正し、国家、民族を真の自立に導き、国家を蘇生させる」

 この内容を批判的に取り上げている朝日新聞3月31日の社説は、「日本維新の会 一体どこへ向かうのか」という見出しで、本文中でもそのことが「有権者に見えにくくなっている」などと書いている。一体何を言っているのか、という思いになったのは、まず、この「朝日」の切り口の方だった。「どこへ向う」も何も、これほどはっきりしていることはないではないか、と思えたからだ。

 憲法9条の改正と「戦争ができる国」。前記綱領の文脈で、ここに向かおうとしているという以外、一体、どういう読み方があるというのだろうか。日本国憲法によって、日本が軽蔑されているという認識には驚かざるを得ないが、憲法の平和主義を「非現実的な共同幻想」とまでいう認識のうえに立っている人間の文面とみれば、当然に導かれるとみるべきかもしれない。この憲法の先進性、先駆的原理というものを評価しないという人間に、これを誇りにもって、世界に発信し続けるなどという精神を期待すること自体、無理だろう。彼らに、まずあるのは、「戦争ができない」「軍隊がない」ことへの劣等感、コンプレックス以外の何ものでもない。

 この下りの前置きとして、綱領は、「日本維新の会は、国家再生のため、日本が抱える根源的な問題の解決に取り組む。決定でき責任を負う民主主義と統治機構を構築するため体制維新を実行する」としているともいう。決定できる前提に彼らが何を見たのかも、また明らかだ。「戦争できる国」を「民主主義」の名のもとに構築する新体制。それが国家再生への道である、と。これが、彼らの劣等感とコンプレックスの先に、導き出されたものである。

 この次に掲げられた、前記第一項について、「この冒頭の一点があれば、国家の再興は掌中に入る」と評する人もいるが(西村眞吾事務所 「眞吾の時事通信」)、まさに憲法改正を突破口に、彼ら自身の欲求のもと、この国を変革しようとしていることは誰の目にも明らかではないか。

 最も重要なことは、彼らの欲求にわれわれ国民を巻き込まないでもらいたいということ。あるいは、われわれが巻き込まれないことである。彼らが何を掲げようと自由だが、どんなに彼らが、「日本が抱える根源的な問題」と言おうと、そのような認識に立つわけにはいかない、という国民は、この国に存在する。

 「朝日」が本当に今、いうべきなのは、そのことではないのだろうか。ひょっとすると、「朝日」は信じたくないのではないか、と思えた。日本維新の会が、本当に前記欲求を貫徹しようとすることを。そして、今夏の参院選で、自民党などと併せて発議要件議席の確保を射程にいれた現実味を。これほどはっきりしていることを「見えにくい」「どこへ」などと書くのは、ある意味、まだ同会と有権者とがつながる余地を残した、善意解釈の表現にすら読める。

 「朝日」は平和主義の全面否定は、「到底容認できない」としているが、彼らが最も重視していることがはっきりした、前記目標あるいは目的の旗を降ろして、国政に関与すると本気で思っているのだろうか。いうまでもなく、綱領からこの一文が消えたり、表現が柔らかくなれば済むという話でもないだろう。「存在感が薄れることへの焦り」などと分析している場合だろうか。あるいは、この一文の発案者とされる共同代表との決別を、もう一方の共同代表に促しているのかもしれないが、それとて善意解釈といえなくない。

「信じたくない」ようなことが現実に進行していることに、今こそ、私たちは目を開かなければならない。



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