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 最近、「逆張り」という言葉をよく目にする。もともと株や投資の世界で使われていた用語だそうだが、多数派の論調と反対の論調を掲げることをいう、ネットスラングである。インターネットの世界で、この言葉が使われるのは、概してそこに「目立ちたい」「注目されたい」という意図が介在していると見るからで、批判的な意味でもよく使われているらしい。

 しかし、そのいわばネット時代の発想や意図を、いったん脇に置くと、これはある意味、健全化であるようにもみえる。いうまでもなく、多数派の論調に対して、少数派の別の視点を提供することになるからである。むしろ、その意味では、自由に「逆張り」が行われにくい環境こそ、不健全な世論環境にも思えるのだ。

 「目立ちたい」「注目されたい」という意図を一律に被せてしまうと、その健全さまで奪ってしまうような気もする。少数派も自由に発信できる空間としての、インターネットのメリットも後退するようにみえる。

 その「逆張り」を、5月28日付けの朝日新聞朝刊がオピニオン面「耕論」で取り上げ、3人の論者を登場させている。そのうち、ナチズム研究者の田野大輔氏の論調が、一番気になるものだった。彼はナチスの政策を肯定する「逆張り」論調を問題化している。

 その「逆張り」論調の根底にあるものとして、「『正しいこと』に縛られず自由にものを言いたい」という欲求と、「他の人が知らないことを知っている」ことを誇示する知的優位に立とうとする欲求を挙げ、さらにこうした「逆張り」には「それを信じたい」需要がある、としている。

 彼がナチス「絶対悪」という立場から、これを問題化してこうした論調を掲げる趣旨は理解できる。しかし、今のネット空間を含む日本の世論状況の中で、発信されている「逆張り」の企画にあっては、ここで「ナチス」を引き合いに出すのは、いささかミスリードの恐れがあるように思えてならない。

 私たちは、「正しいこと」「絶対悪」以前に、それを判断するフェアな情報に触れているのだろうか。むしろ、私たちは、そこを疑わなければならない状況にいるのではないかと思えるのである。その意味では、「『正しいこと』に縛られず自由にものを言いたい」という欲求とか、「他の人が知らないことを知っている」ことの誇示、さらに需要というのは、少数意見をあえて発信する、その意図を、いかにもネット時代の風景のように矮小化しているようにとれる。

 むしろ、ここで連想してしまうのは、フェアな情報提供を多数派論調が意図的に阻害する「フェイクニュース」や「陰謀論」といった烙印の方である。そしてフェアな情報を提供しないままでの、多数派論調の形成こそ、権力側の政治的意図が絡む。あえていえば、むしろここに新たなナチズムの台頭を懸念してもおかしくない。

 最近の政府、メディアの姿勢は、賛否、多数・少数説をフェアに提示し、国民に判断材料を提供するという姿勢が決定的に欠け、あらかじめ「正しい」と認定したものだけを目に触れさせるような、あからさまな偏向がみられる。それに対し、ネット空間で発信される「異論」は、これまたあらかじめ「フェイク」「陰謀論」扱いされ、多数派論調に染まった大衆が、余所見をしないように、そうした論調を色眼鏡で見るように誘導してしまう。

 賛否両論を提示したら、国民が迷う、あるいは間違った方に誘導される、ということだろうか。選挙の結果に対して、大方、国民の賢明な判断のように読みとろうとするメディアが、本心では国民の見識を侮蔑しているのかと疑いたくなる。

 「逆張り」の少数論を、ネット空間での意図などを被せず、正当に多数論を疑う、フェアな材料としてとらえてみる健全さ、冷静さがあってもいいはずだ。



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