ロシアの侵攻によって戦争状態にあるウクライナに対する、日本国民の目線として、二つのことが気になってきた。一つは、ここで度々取り上げてきた「停戦」との関係である。領土奪還を掲げて徹底抗戦を掲げるウクライナに対し、我が国は復興を含めて、支援する立場を表明しているが、国際紛争の解決手段として戦争を用いないことを国是としているはずの日本の立場をどうとらえているのか、ということである。
つまり、日本の立場からすれば、いかに「力づくで」奪われた領土であっても、それを「力づくで」取り返すことは容認しない。そのことは仮に、ウクライナを非軍事的に支援するとしても、当然、日本の立場として釘を刺すべきことであり、その意味で言えば、まず「即時停戦」が導き出されるべきとなるはずだが、果たして国民はそういうとらえ方ができているだろうか、ということである(「『止めてはならない戦争』という価値観」)。
大マスコミも、ロシアの「侵略」を問題視するだけで、こうした視点には全く提示せず、イスラエルのカザでは言う「即時停戦」をここでは口にしない。かつて北方領土問題で、日本の国会議員が元島民に対し、「戦争をしないとどうしようもなくないですか」などと発言し、問題になったが、日本に置き換えたとき、今のウクライナのスタンスはどう考えるべきか、を喚起する視点を提示することはない。
ロシアの「侵略」ばかりが語られ、「明日は我が身」的な切り口で、その脅威が語られる論調はあるが、その先の対応として、ウクライナ同然の徹底抗戦の必要性を当然のごとく、国民に想起させていないか、あるいは国民が想起していないかという問題になる。
そして、もう一つは国民の動員である。ウクライナで25歳に引き下げられた60歳までの徴兵(兵役対象は18歳から)や出国禁止。前記「明日は我が身」的な切り口が生み出すムードの中で、我が国の国民は、これをどうとらえるのか、である。
「祖国のために命を捨てるのは高度な道徳的行為」などと語った4月の記者会見での河村たかし・名古屋市長発言の意味について、改めて3人の批判的な分析を、6月15日付朝日新聞朝刊が取り上げている(オピニオン面「耕論 国のために死ぬ=道徳的?」)。
この中で、国際政治学者の伊勢崎賢治氏は、こう語る。
「いま政治家の責務は、市民は闘う用意がない存在であることを明示することです。国際人道法を盾に自国の市民を守る行為です。逆に『我が国の市民はいつでも戦う用意がある』と言明したら、敵に無差別攻撃を正当化する機会を与えかねません。領土問題などの対立点を交渉によって平和的に解決する環境作りのためにも、政治家は動員強化に慎重であるべきです」
「その意味で僕は、ウクライナ侵攻以降、国家が国民を戦争動員する行為への許容度が世界中で高まっていることを懸念しています。万一戦争が起きてしまったときに銃をとるのか逃げるのかは本来、各自が考えて決めることです。徹底抗戦しているというイメージが広がっているウクライナの国民の中にも、徴兵拒否の動きはあります」
まさに今のウクライナの徹底抗戦の正当化と、それから当然のように導かれかねない動員の正当化イメージへの警鐘というべきである。とりわけ、「反撃能力」保有など、専守防衛の底が抜けたような状況になりつつある我が国にあって、この正当化の問題に国民はもっと自覚的でなければならず、メディアはもっとそれを喚起してしかるべきなのである。
河村発言を機に、動員への批判的な視点を識者の発言を通じ、国民に提示した今回の朝日の姿勢は評価できるが、一方で、前記伊勢崎氏も言及したウクライナ侵攻後の動員への許容度の高まりや、非戦の日本の立場として釘を刺さない支援の在り方と、そこからくる徹底抗戦正当化イメージを考えたとき、やはり国民に喚起せず、覚醒させないようなメディアの全体的なスタンスとしては、やはり依然問題があるといわなければならない。
この朝日の企画のなかで、戦争と徴兵に対する国民の身の振り方として、伊勢崎氏は自分の意志として、歴史学者の遠藤美幸氏は、旧日本軍戦場体験者の言葉として、「逃げる」ことの正しさを紹介している。ウクライナの姿勢が正当化される中で、この国民として戦争と徴兵から「逃げる」ことの正当性は、果たして今、どこまでに国民に伝わっているだろうかということも考えてしまう。
「命はひとつ 人生は一回
だから 命を捨てないようにね
あわてると つい フラフラと
お国のためなどと言われるとね
青くなって しりごみなさい
逃げなさい 隠れなさい」(加川良「教訓Ⅰ」)