司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 はやり言葉のようになった「忖度」とは、実は責任回避・転嫁に使われ得るものであるということを、私たちは改めて肝に銘じておく必要がある。「他人の気持ちを推し量ってなす行為」には、もちろん好意にも、見返りにも由来する場合があるだろうが、いうまでもなく、この言葉には「推し量られた」側が、のちのち「勝手にやられたこと」という余地が残されている。

 

 とりわけ、その「推し量られた」行為そのものに不都合があったり、そもそも本当は「忖度」ではない場合に、それは繰り出されることが考えられる。つまりは、本当は「やられた」のではなく、「やらせた」行為であったとしても、それを「忖度」であった、として、責任を回避できる余地が、むしろ予め作られていたことが、容易に考えられるということなのだ。

 

 おそらくこの言葉が登場する場面で、一番疑わなければならないのは、そのことだろう。

 

 森友問題をめぐる、もはや歴史的国家犯罪に発展した「公文書改ざん」。麻生太郎財務相は、「書き換え」(改ざん)が(財務省)理財局の一部の職員によって行われ、責任者は当時の理財局長であったといい、その一方で、政治家や政府への「忖度」が働いたとは「考えていない」という、意味不明の発言をしている。一部の職員が、とてもミスとは思えない行為を「忖度」でなくやったというならば、「命令」があったことを認めなければならない。

 

 総理や官邸、財務大臣の命令、関与を認めない、彼らの立場は、だれかが勝手にやった、迷惑といわんばかりの、あるいはお門違いの「忖度」でなければならないことははっきりしている。では、なぜ、麻生大臣は、一見矛盾するような「忖度」の否定をしたのか。それは、「忖度」であれなんであれ、この件をとにかく政治家や政府から離したかった、ということではないだろうか。

 

 防衛線という言葉が、今、使われている。官邸側の森友問題の鎮静化という究極の目的をにらんで、この問題を近畿財務局、「理財局の一部」、本省の組織ぐるみ、財務大臣の辞任といった、前記目的にかなった責任ラインへの後退で考えているという見方だ。そもそも世論が収まるラインが、責任をとらなければラインとするのが、本質的にあるべき姿勢かはともかく、実はどの後退ラインでおさめようとしても、首相や官邸が知らなかった、指示はしていないを押し通すのであれば、ミスを隠すためにやったと説明できるものではない限り、あくまでどこかが勝手にやった「忖度」としか説明できない。というか、そう言い続けるしかないのだ。

 

 しかし、今回、それを完全に阻むことになるのは、官僚の現実というべきである。つまり、彼らには、「忖度」する動機がなければならないからだ。発覚すれば自らの身を決定的に危くする、歴史的犯罪を上にお伺いを立てることもなく、行う動機とは何だというのだろうか。「命令」というのは行為の裏付けであり、彼らには担保になり得るのである。それがないまま、「忖度」して犯罪行為に手を染めるなど、官僚トップの次官でさえ出来ないのではないか、とテレビで語った元官僚のコメンテーターがいた。

 

 もちろん、「命令」という体裁をとらない、「忖度しろ」という圧力は、もはや「忖度」ではなく、意図としての命令である。この「裏付け」をどうとるかで、官僚は悩み苦しむかもしれない。

 

 書きかえられた国有地取引に関する決裁文書には、元官僚からみても、通常考えられないような詳細な記述があった。それは、むしろこの取引の異常さ、いかに特例であったか、どういう力が働いていたのかということを、発覚したときのために、記しておこうとした、現場の官僚たちがやれることとしてやった「努力」ととらえる見方がある。

 

 それが、元理財局長の国会答弁が先にあり、それに食い違う内容について、答弁の整合性をとるために、同元局長が指示したという政府側のストーリーがある。この食い違う内容を、答弁の段階で知っていなかったという想像もできにくいが、知っていても知らなくても、いや知っていればなおさらのこと、なぜ、彼はそんな答弁をしたのだろうか。いずにしても、発覚すれば、終わりなのである。

 

 はじめから首相官邸との間ですべては共有され、その「裏付け」があったとすることは容易に想像できるが、百歩譲って、そうした資料が存在することが分かった時点で、なぜ、報告を上げ、これをどう善処するのか、お伺いを立てる行為をとらなかったのか。そのことの方が疑問になってくる。これまた、なんの裏付けもなく、国家犯罪を部下に命じることができたことになる。

 

 答弁の整合性を、なにやら勝手な「忖度」の動機付けにするような話が聞かれるが、少なくとも理財局長については、もし、今回があらかじめの「謀議」がなく、予想外の文書の存在が明らかななったとしても、当然答弁を撤回するという選択肢もあった。首相が辞任の「条件」を示してしまった、例の答弁との整合性を挙げる声もある。この「条件」は撤回できない。しかし、首相も官邸も知らないところで、首相発言と齟齬が出る可能性がある文書を、こっそりと国家犯罪を犯すリスクをとって、官僚が改ざんする、ということが考えられるだろうか。前記現場官僚の「努力」とは違い、この「努力」には官僚が手をつける動機付けが不自然にとれる。

 

 3月14日にこの問題での官邸前抗議デモで、参加した市民らからは安倍首相と昭恵夫人の責任を追及するものと共に、「官僚頑張れ」というコールが飛んだ。政治主導の先に現れた官邸主導、さらにその先に現れた「忖度」という透けたペールのかかった官僚を巻き込んだ公文書改ざんという国家犯罪。元理財局長の国会招致も言われているが、官僚たち自身が良心と職責にかけて、土台が崩れようとしているこの国の民主主義の未来のために、真実を明らかにする「努力」を示すことを期待しないわけにはいかない。



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