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 安倍政権下で、また公文書管理が問題化している。しかも、自衛隊の日報問題、森友・加計問題、そして今回の「桜を見る会」での、廃棄、改ざん、廃棄したとされたものの現存、あるいは記録不作成といった事態は、そのどれもが政権が追及を逃れるための「隠ぺい」という疑惑か張り付いている。際立った、そして明らかに異常、不自然な共通点といわなければならない。

 これらを語るにあたり、公文書の「ずさんな管理」という言い方が、一部でなされてきたが、もはや適切な表現とはいいにくい。怠慢やミスではない、明らかな作為か疑われる以上、事態はとてもこの表現に収まりきれない。

 安倍首相の認識を問うにしても、果たしてそれが公文書の重要性なのか。、つまり、いかに国民にとって重要であるかを訴えることなのだろうか、という気さえしてくるのである。仮に「隠ぺい」の意図があるとすれば、その重要さを認識すればこそ、疑惑を残すまでの、強引な手段が選択された、とみる方が自然だからだ。もちろん、疑惑どまりで先に進めるという、ヨミを持って。

 いうまでもなく、本来、公文書は彼らにとっても疑惑を晴らす証拠になる、重要なもののはずだ。政権側が潔白を主張しようと思えば、これら問題となってきた文書を出せば、たちどころに立場は有利になる。当たり前のことながら、彼らにとって「不都合」という要素がなければ、そもそも「隠ぺい」などという疑惑が生まれる余地もなくなるのである。

 もし、潔白を証明する公文書が存在しない、ということであれば、真っ先に安倍首相が危機感を持ち、怒ってもいい局面のはずだ。それが、この「ずさんな」公文書の実態によって、逆に責任を決定的に追及されずに済んできた、ととれてしまうところに、安倍政権の決定的な異常性があるといわなければならない。

 森友・加計問題以降、政府による公文書管理のガイドライン見直しで「1年未満の保存文書」が取り上げられ、さらに内閣府への公文書監察室設置、独立公文書管理監の局長給への格上げによる、各府省庁における行政文書の常時監視などチェック機能強化といった動き。しかし、結果として「国民に説明する責務が全うされる」ようにするための文書はまたも消えてしまっている。

 安倍政権で起こっていることの深刻さは、むしろこうした制度的な枠組みを超えている、あるいは超えようとしているところにあるともいえる。まるで公文書でさえもなかったことにできる、という成功体験と自信に基づいているようにみえる政権の異様さは、「国民に説明する責任」を放棄する姿勢、さらにいえば、放棄しても政権を維持できるという「実績」が生み出してしまったものではないだろうか。

 「決められる政治」「政治主導」。そんなスローガンの先に現れた政権は、いつのまにか国民に対する説明責任も放棄できる、それでも国民が許す、ととらえる存在と化した――。その危機感を今度こそ、多くの国民が共有しなければ、わが国の民主主義にとって致命的なものになりかねない、国民軽視の「隠ぺい」実績を、さらに積み上げさせることになりかねない。



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