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 白血病であることを公表した競泳の池江璃花子選手に対する、桜田義孝・五輪相の発言が問題になっている。記者に対して、この件について述べたという、「がっかりしている」「盛り上がりが若干下火にならないか心配」という言は、選手本人の気持ち、同情と快癒を望む国民感情を逆なでし、これまでも資質が問われてきた同大臣に、「無神経」という評価が加えられる形になっている。

 もっともこれは、もはや人間性の問題といえる。もちろん、それを含めて公職につく人間の、あるいは政治家としての適格性が問われることはあり得るが、より彼の職務に直結する資質という意味では、この件に加えて明らかになっている、就任から4ヵ月経っても五輪憲章を読んでいない、という事実も見逃せない。これまでも五輪関係の国会答弁で、さんざん無責任ぶりを突っ込まれながらの、この対応には、この人の職責に対する自覚そのものを疑わざるを得ない。

 そのことと同時に、ここで見逃せないのは、安倍政権でまたもや登場する、辞めない姿勢と、その理由である。桜田大臣は発言を撤回したが、現時点では進退について「職務を全うできるよう努める。今までの分も挽回できるよう、一生懸命職務に努めたい」と続投の考えを示している。安倍首相も「適任」「職責を全うしてもいたい」との姿勢だ。

 安倍政権で、大分おなじみのパターンである、この「職務を全う」という言での続投。まるで魔法の杖を得たかのように、閣僚の問題が追及されるごとに、この切り口で批判をかわす。「今回もこの手で」という、政権の声が聞こえてきそうである。

 この切り口には、ある種の巧妙さがあるともいえる。いうまでもなく、この「職務全う」論には、一定の賛同する世論があり、繰り出す側はそれをはっきりと読み取っているととれるからだ。辞めることで責任を取るのではなく、きっちり責任を果たすことの方が重要という捉え方。まさに大臣の「今までの分も挽回」というのは、その「民意」に直球で訴えていることになる。

 国民のなかには、そもそもこの国で長くとられてきた「引責辞任」に対する疑問が徐々に広がっているようにもみえる。起きたこととの直接的な因果関係が見えない、その立場では防ぎようがなかった案件でも、トップが辞めるしか収まらないというような、「切腹文化」と言いたくなる、ある種の慣習がこの国にはある。その不合理性に気付き出しているところに、前記「職務全う」論への支持が繋がっているようにとれる。

 ただ、前記切り口、むしろ手口としての巧妙さというのであれば、ここから先であるといわなければならない。なぜならば、それでも適格性の問題は問われるからだ。当たり前のことだが、適格性の程度如何では、続投する不利益の危機感が、「職務全う」による「挽回」の期待値を上回る。ご本人の思いだけで、必ず「職務全う」を国民が期待できるわけでもない。

 この切り口が繰り出されている巧妙さとは、どこかこの期待値の問題をぼやかし、国民のなかにある前記「引責辞任」の不合理性の感情に乗っかろうとする、試みのようにとれるところにある。

 しかも、これまでもそうだが、安倍政権の場合、政権の利害がみえみえである。安倍政権には、2006年から2007年にかけて、「政治とカネ」の問題や失言で、次々と閣僚が辞めることになった、第1次政権の「辞任ドミノ」のトラウマがある。辞めさせない安倍政権に、このトラウマを被せる分析は、もはや一般的ともいえるが、今回のことでも不思議なくらい、この保身的な政権の対応へのメディアの追及は甘い。それも、安倍政権側のヨミに加えられているのではないか、と疑いたくなる。

 このような形で、閣僚の職責に対する追及をかわし、続投を許す状況とは、国民が政府の「適材適所」方針に何の影響力も持たない、まさに首相が「適任」「職務全う」といえば、任命権者の責任も問われないことにつながりかねないものである。悪しき「魔法の杖」の濫用に対する、国民の感性と冷静な判断が試されているように思う。



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