司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>




 コロナ禍のなかで、いまだ「開催」という前提に立っている東京五輪・パラリンピックをめぐる状況は、実に気持ち悪い。いうまでもないことだが、この先の見えないコロナ禍の中にあって、開催の是非について、様々な見解があっても、それは当然だし、「開催」に向けてなんとか模索したい、関係者の心情までは、理解できる。

 気持ち悪いといったのは、政府・大会組織委員会の「開催ありき」の姿勢である。「開催」という前提を不動とする盲目さを、私たちは今、目の当たりにしているのである。海外観客の受け入れ断念が既に発表されているが、リスクや検討内容の具体的説明を極力省き、「開催ありき」を押し通すために、足を引っ張る問題を、とにかく排除した感が否めない。この先検討されるかもしれない日本人観客の扱い、あるいは無観客の是非も、結局、こんな感じで決めていくつもりか、と感じてしまう。

 そもそも「ありき」の姿勢とは、反対論をきちっと取り上げて、検討するつもりがない、という意向を表明する、ある意味、民主的な意思決定には「禁じ手」である。実現への思いや強い意志を示すものであることは理解しても、それが事実上の反対論の封殺であれば、公正な議論が担保されないのはもちろんのこと、結果的に妥当な方針が導き出されない危険性が高くなる。

 「ありき」論は、多分に前記したような強い実現への姿勢が示す精神論への賛同・共感に寄りかかるものである。そこへの評価で、反対論封殺への不当性を覆い隠そうとする。今回のコロナ禍下の東京五輪・パラリンピック開催をめぐっては、既に各世論調査でも、6~7割の国民が開催に懐疑的であることが示されている。

 それだけに「開催ありき」論は、既にはっきりとその世論とは乖離している。それがはっきりとしていながら、なお、それを省みずに(その決定に従えという以前に)、それを直視しないまま、精神論への賛同、心情的共感で、なんとかしようとしている、なんとかなると考えているようにとれることが気持ち悪いのである。コロナ禍を少なくとも表向き深刻な事態であると発信していることとの、このコントラストはどう理解すべきなのだろうか。

 中止をめぐっては、経済的損失の問題、多額の放映権料を見込むIOCの意向など、巷間さまざまな「止めるに止められない」事情が取り沙汰され、それをこの「ありき」論の背景にある、説明できない理由として理解している国民も少なくないはずだ。また、既にこれは中止・延期に向けた、段階的措置であるとする見方もないわけではない。

 しかし、そこで「ありき」論を理解し、受け入れるのは、結果の妥当性だけでなく、政府と国民の関係性としても危険であると感じる。ここは国民が、「忖度」して見過ごしていい局面にはとても思えないのである。

 国民世論がどうであれ、きちっとした議論の俎上にのっけず、国民の疑問に答えなくても、政権の都合でなんとかなる、なんとかできるという実績となることが問題なのである。東京五輪・パラリンピック開催にとどまらず、憲法改正や安全保障など、国民の異論が想定される案件にも、推進派の意向・都合で、公正な議論・その機会を吹っ飛ばそうとする「ありき」論は、登場しかねない。

 今回、国民は、その「ありき」論に対する感性を試されているように思えてならないのである。



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