辞任を表明した細田博之衆院議長の会見と、記憶に新しいジャニーズ事務所の会見を並べてみる見方が、X(旧ツィッター)などに溢れている。全く異質のはずの、二つの会見を、並べたくなる信条は、十分理解できる。
その共通点は、いうまでもなく問題の深刻さを理解しきれていない者の会見の空虚さであり、「答えたくない」というあまりに露骨な態度の表明、説明責任への自覚のなさということになる。会見時間の制限・打ち切りも、会見そのものの質として、並べたくなるのも分かる。
この程度でなんとかしのぎたい、という会見当事者の本音が、社会に伝われば、謝罪の意味もなくなれば、説明責任を果たしたことにならない。そのことを彼らがなぜ、事前に自覚して会見に臨まなかったのか。逃げの姿勢は、彼らの責任の自覚の度合いをさらし、かつ、逆にその程度でなんとかなる、と読んだ社会に対する侮りを伺う尺度にもなる。それは、本当に分からなかったのか、とどうしても問いたくなるのも、共通している。
しかし、ネット論調は、両会見を並べたうえで、その多くが、「細田会見をジャニーズ会見以下」と断じている。それくらい細田氏の返答には誠意どころか、回答する意志が感じられなかったということではあるが、言うまでもなく、彼には「言論の府」の長としての重い責任が当然に被せられてみられる。
自身のセクハラ疑惑に関して、「誰一人セクハラがあったという方はいない」「♯Me Tooがない」「男性に対するハラスメント」などと応じ、当然ながら、被害者心情を理解していないと叩かれている。その無神経さもさることながら、さらに問題とされたのは、解散命令が請求された統一協会との関係に対する会見での態度だ。
教団との「特別な関係」を否定し、会合にも「呼ばれれば出る程度」、安倍晋三元総理の暗殺との関係、統一協会と関係性の問題を、踏み込むことなく理由も明らかにしないまま、ただ全否定するような内容。会合への出席への問題意識をはじめ、政治権力者の関わりを事実上、彼らが利用してきたととれる点など、衆院議長の立場はもちろん、そもそも政治家としても問題の深刻さに向き合っていないととられるのは、あまりに当然のことといわなければならない。
しかも、そのうえてで、体調を理由に議長を辞任するとしながら、次期衆院選への出馬する意向は示している。議長職の権威を失墜させたという批判も聞かれるが、この会見内容を踏まえれば、政治家としても、途方もない責任への無自覚さを感じざるを得ない。そもそも彼らとって、この会見は何だったのか。少なくとも説明責任を誠実に果たす場であるとは、ハナから思っていなかったのではないか、ということをどうしても言いたくなる。
そして、説明責任をめぐる日本の政治権力者の態度について、最後には、結局、同じところに辿りついてしまう。つまり、この姿勢こそが、彼らにとっての私たち国民のレベルの反映なのではないか、と。こうした会見を開き、どんな説明責任を果たさなくても、なんとか凌げ、あわよくば、いずれそれはなかったかのように、政治家で在り続けることも許される、許してくれる国民として。
そり都度、私たちが、怒り、厳しい目線を向け、通用しない国民であることを彼らに分からせる。そうした政治権力者との緊張関係を作らなければ、私たちはこれからも何度もこの会見で示されたような、政治権力者の姿を見させられることになるはずである。