裁判員に記念として配られた「裁判員バッジ」が、オークションサイト「ヤフオク」に出品されたことが、ネット上で話題になっている。参加裁判員・補充裁判員に配られるこのバッジは、直径1・7センチの銅合金製で、裏に地裁・支部名とその裁判所で何人目か記した通し番号が記載される。二つの円が交わるデザインは、裁判官と裁判員が協力し、「∞」(無限大)の効果をもたらす、という願いが込められている、という。
なぜ、バッジ配布という形になったのか。試作品公開当時、メディアに公開されている最高裁のコメントでは、「感謝の気持ちを表すとともに、バッジを基に裁判員制度について話題にしてもらうなど“広報”活動にも期待している。性別や年齢を問わず、長く手元においてもらえるようバッジにした」としている(共同通信2009年5月29日)。
「記念」するものでも何か、ということで、たどりついたアイデアがバッチというのも、発想が古い。確かにかつて日本では、何かの記念といえばバッチが配られ、また国民の側もバッチに記念という役割を求めて入手しようとした時代があった。だが、いま、「長く手元においてもらえる」ようにバッチというのは、明らかに感覚がずれている。
ただ、それもさることながら、義務ではなく権利だと、当局が強弁している裁判員裁判の市民参加に対して、「感謝の気持ち」というのも、まして「記念」、話題づくりで広報に期待、という発想自体どこかおかしくないだろうか。「人を裁いた記念」。制度を定着化させようとする側は、これをどんなつもりで国民が手にすると考えたのだろうか。
当時、ネット上でも賛否の反応はあったが、多くは違和感を持つという反応だった。バッジで記念というよりも、むしろ思い出したくないという経験者の反応もあった。
この当局のアイデアは、制度推進の二つの無神経な発想を象徴しているように思う。一つは、「裁く」という厳粛な行為に反する「軽さ」。国民が背を向ける制度をなんとか定着化しようとするあまり、制度推進派は、裁判員制度について、一貫として、「裁く」ことの責任の重さより、「誰でも」「気楽に」参加できる制度アピールをしてきた。被告人に生命・身体にかかわり、本人や家族の人生を左右することになる判断にかかわる、その紛れもない「重さ」を、制度導入のために「軽く」繕うこと自体、国民自体が賛同しなくても当然な、「裁き」への背信、冒とくといってもいい。
「人を裁いた記念バッチ」というアイデアは、まさにその発想の延長線上に生まれたものとみることができる。こんな浮ついたアイデアの力を借りて、話題を作って定着化させようとする狙いひとつをみても、「裁判」として裁判員制度の異常性が現れているというべきである。
そして、もう一つは、前記したことの裏返しであるが、国民の主体的参加をいう制度推進者の、国民に対する無理解である。。被告人に死刑判決を言い渡した裁判員裁判の裁判員を務め、殺人現場の写真を見せられるなどして、急性ストレス障害になったとして、国に慰謝料を求め、昨年9月30日に福島地裁で請求を棄却された福島県郡山市の青木日富美さんは、過料を恐れて参加してしまった自分の行為と、自分の視覚と聴覚の二つの感覚だけで判決を下した「軽率」な行為を後悔していると伝えられる。裁判員制度の無理は、参加者に健康被害にまで及ぶ「実害」を与えていると同時に、強制することによって、厳粛な裁きに対する国民の良心も踏みにじっているというべきである(「裁判員制度が踏みにじっているもの」)。
国民のなかにある「裁く」という行為は、当局が設定した「人を裁いた記念バッジ」などといったものに、およそ置き換えられないものであったとしても何も不思議ではない。まして裁判員裁判の対象は死刑事件を含む重い事件である。それに臨んだ人間、臨むかもしれない人間の良心からすれば、体験者がときどきそのバッジを持ち出して、「よくやった」と思い出に浸ったり、他人にバッジを見せながら「良い経験」として話題にしたりする、そういうものでなくて、むしろ当たり前だ。そういう意識を推進者は分かっていないのか、分かっていてもなんとかしようとしているのか。
このアイデアがおかしな制度推進の象徴だとすれば、今回のヤフオク出品も、その無神経の末路として、制度の未来を象徴している。当局が折角「思い」を込めて作ったバッチをこのようにネットオークションにかけるなど、けしからん、不謹慎といったお叱りの声が、あるいは推進者側からは出るのかもしれない。しかし、この陳腐な企画を批判し、そもそも「裁き」をバッジで記念することへの反発が背景にあるのだとしたならば、この行為は余程まともという気がしてくるのである。