入管法改正案を強行採決した11月27日の衆院法務委員会で、採決を阻止しようと議長席に詰め寄る野党議員たちの映像を見ながら、あるテレビ番組のコメンテータが、興味深い見方を提示していた。このわが国でよく見る、採決ぎりぎりの、野党議員による国会内での実力行使風景への、国民目線はかつてと違うのではないか、と。
どう違ってきたかといえば、それは大略、かつてはこの野党のぎりぎりの抵抗を、国民は「野党も頑張っている」と肯定的に見た面があったかもしれないが、今は、おそらく違う。むしろ「何をやっているんだ」と呆れているのではないか、というのである。
あくまで印象としてではあるが、ネット世論の状況を見ても、この捉え方は大きく外れていないように思う。そして、もしそれが正しいとして、なぜ、世論がそうしたムードに変わってきたのか、その理由としては大きく二つのことが考えられる。
一つは「提案型」アプローチを最良とみる見方の拡がり。「反対」だけでなく、「提案」が議論にふさわしく、さらにそれが議論参加の条件のようにみる捉え方からすれば、対案によって議論できないことが否定的な要素になる。そして、反対のために、実力行使に及んでいる野党議員の姿には、建設的議論のための提案できない、そうした努力と能力が欠落した結果とみるマイナス点が付けられることになる。
そして、もう一つ考えられるのは、抵抗しても無駄という、冷ややかな意識である。多数派に対し抵抗しても、結果は分かっている。何を無駄なことをやっているのだという冷めた見方である。よく見るシーンは、いまや敗北経験の焼き直しということになる。
しかし、この二つが何を意味してしまうのかは、明らかである。つまりは、いかなる場合においても「抵抗」「阻止」の意味、役割を低く見積り、多数派による「強行採決」を事実上、容認するものになる、ということだ。
これは、いうまでもなく、「強行採決」を実行する側に、とても都合のいい環境となる。抵抗の無駄をいう論調は、多数決を絶対とみて、その先の多数決の結果を先読みしてくれる。彼らのなかには、相対的少数派は、多数派に抵抗しても無駄だ、それこそが民主主義の結論なのだから、と諭す人間もいる。悪あがきせず、受け入れろ、悔しかったらば、選挙で勝ち、多数派をとればいい、それが民主主義のルールだと。
しかし、この考えに国民が立ってくれるのであれば、国会での熟議など全く不要だ。選挙で多数派が決した時点で、結論は変わらないということになる。まさに「強行採決」にふさわしいお膳立てとなる。
ちなみに「提案型」アプローチを強調したところで、このお膳立てでは、基本的に結論は変わらなくなる。反対者にとって「提案」は妥協であり、かつ、多数派がのむ範囲で結論に反映される可能性があるにすぎないからだ。熟議も歩み寄ることも前提としない、かつ、「強行採決」が許される環境が与えられ、そのつもりになっている多数派に対する「提案型」アブーローチが何をもたらすのか。場合によっては、多数派に都合よく採決に至らせる、土俵に乗るだけに終わるのが現実である。
つまり、「提案型」にメリットがあるとすれば、多数派が熟議と歩み寄りの姿勢で、それを少しでも反映させようとすることに意味を見つけている場合に限られているのだ。それは、要する「強行採決」とは真逆の多数派の発想と、それを取り巻く環境が支えるのである。
民主主義にとって多数決が、いかに重要な要素であっても、それはその独裁ではなく、いかに少数派の意見が汲み上げられるかで真価が問われる、ということがいわれてきた。そして、その意味で、民主主義の議論とは、とても面倒で、労力がかかり、また、工夫が求められるものでもあったはずだった。
国民が、もはやそのことにこだわらず、多数決的結論だけが民主主義、多数派掌握だけが意見を反映させられる民主主義だと、割り切っているというのであれば、今の国会軽視、熟議回避の「強行採決」政権・与党の根底を支えているのは、やはり私たち国民の自覚ということになってしまう。