司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 私たちの国では、「知名度選挙」が跋扈している。国政選挙では、政策も語れず、論戦にも応じることができないようなタレント候補が当選し、地方選挙では、知名度を背負って突然か現れた候補の前に、政策を準備していた立候補予定者が消えることも余儀なくされる。メディアは「抜群の知名度」などと当たり前のように報じるが、もはや彼らも、受け手である大衆側も、これがその候補者と同時に、選挙における「知名度」という要素そのものを持ち上げていることに、無神経になってきているようにみえる。

 

 「地盤(支持組織)、看板(知名度)、カバン(資金)」という言葉がいわれてきたように、選挙を戦う側にとって、知名度は意識せざるを得ない、勝ち抜くための要素だ。戦略的に、まず、第一段階で名前と顔、第二段階で政策という捉え方もある。タレントなど知名度を持つ人材は、既に第一段階をクリアして、第二段階からスタートを切れる有利な存在という位置付けとなる。

 

 しかし、そうした候補者が第一段階だけで勝ち切れるという状況そのものが、「知名度選挙」の実相といわなければならない。ゲタを履かせた擁立で勝負が決まる選挙。「勝てる候補」という言葉も飛び交うが、その中身は必ずしも政策や実力、適性で勝てることを意味しない。要は、そもそもが「勝ちさえすればいい」という中身を問わない、問われない選挙という本性を持っているのだ。

 

 しかし、言うまでもなく、それは私たち有権者側の問題としてとらえなければならない。知名度が効果をもたらす選挙を支えているのは、私たちの側なのだ。効果があるからこそ、彼らは仕掛けるのだから。

 

 かつて、知事選挙に出馬した知名度のあるお笑い芸人が、知名度を武器にはしながら、逆に当初、政治家として力量未知数、「知名度頼み」ととらえる、政党のヨミと、有権者の厳しい目線にさらされた、という話が伝わっている。彼は、逆に芸人としての知名度のマイナスを意識していたからこそ、応援に芸能人を動員せず、「政治家」としての勝負に徹し、勝利した、と。地域的な事情もあるし、最終的にやはり知名度が功を奏したという見方もあるだろうが、もし、事実だとすれば、そのヨミも厳しい目線も、本来の選挙のあり方としては、むしろ健全のように思える。「知名度選挙」のもう一つの実相は、有権者側の手抜きにあるといっていいからだ。

 

 知名度による選択は、有権者にとって楽な選択といわなければならない。こういう話になると、必ず有権者としては、顔も名前もなじみのない候補者よりも、テレビで見て知っている候補者に親近感を覚えるとか、より知っている人材を選ぶのもある意味、当然というような、「知名度選挙」を支えている側へ理解を示す発言も繰り出される。

 

 しかし、もし、選挙を適材選択の機会と真剣に考えるならば、有権者はその人物について、できるだけ知ろうとしなければならない。それは、もちろん労力がいることだが、インターネットの普及は、いまやその情報収集の労力を軽減させている。少なくとも、候補者の経歴、実績、考え方、社会的評価に関する情報に、私たちはアクセスしやすくなった。つまり、「知名度選挙」は、私たちの、いわば甘えであって、かつ、その甘えに乗っかろうとする候補者と支援政党の甘えで成り立っているのである。

 

 「選挙は勝ってなんぼ」ということが繰り返し言われる。この言葉の前に、手段を選ばず勝ちさえすればいい戦い方も、「これから勉強」などといって政策を示せない候補者の姿勢もなにやら通用してしまっている。勝ったあとになんとかしてくれるかのような期待半分の空手形がまかりとおっているかのような。

 

 「知名度選挙」というこの国の病に、私たちがまず向き合わないことには、この国は、やはり変わらないのではないか。



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