判事と検事の間の交流人事、いわゆる「判検交流」。このなかで、行政・国賠訴訟で裁判官が国の代理人である訟務検事になったり、逆に訟務検事が同訴訟を担当したりすることが、「司法の信頼を損ねる」と、弁護士界側が問題視した1980代当時、官側が必ず反論のなかで口にしたのは、逆にそうした立場が入れ替わる交流でも、それに引きずられない公正さを保つとする、法曹の良心ともいうべきものへの信頼だった。
それでも弁護士界側の論者たちは、「李下に冠を正さず」の言葉のごとく、例えそうであっても、国民に疑念を抱かせないための「公正らしさ」を主張したが、結局、交流する彼らがいう信頼論とは平行線だった。それは、いわば、国民目線と法曹のプライドの対立のようにも見えた。
結果として、提起された問題はそのままに、むしろ交流は当時の10数人から徐々に増え、現在も年間各40人近くが交流しているとされている。
この判検交流が、一昨年2010年3月12日の衆院法務委員会で取り上げられた。委員である中島政希議員が追及したのは、交流がどういう根拠に基づいてなされているかということだった。戦後、裁判所構成法が改正され、裁判所法と検察庁法に分かれ、司法と行政とを分けるという趣旨であったので、昭和20年代には判検交流なかった、同40年代後半になって増えた。国を相手にした訴訟が増え、民事に強い検事がいないので裁判官から補充するというようなことだったらしいが、調べても根拠になる、資料や覚え書もない――と。
最高裁長官代理の大谷直人人事局長(当時)の回答は、要するに何もない、と。根拠規定もなく、また開始時期の資料もない、ということだった。このあと同局長は司法制度改革審議会の意見書まで持ち出して、裁判官の「外部経験」の有用性などを主張されている。だが、これを聞いた時、やはり「疑念」を排除して、根拠なきこの交流を支えてきたのは、「プライド」ではないか、と思えた。
どうもこの「交流」が見直されるという話が伝えられている。「交流」をやめるわけではなく、法務省側が、訟務検事のなかで多数を占めていた裁判官の数を減らしていくといくらしい。きっかけは、実は前記法務委員会にあったようだ。大谷局長のあとに見解をただされた当時の千葉景子法相が、根拠を検証する意向とともに、「交流」の「疑念」をあっさり認め、見直しの検討を指示したのである。
弁護士出身法相の彼女の感性、はたまた政権交代が、平行線を破り、この法曹界の慣行に変化をもたらしつつある、というくり方も、もちろんできなくはない。しかし、背景にはやはり「プライド」があるように思える。つまり、検察という組織をはじめ、司法が国民の信頼ということに対して、「プライド」を最上段に掲げて、胸を張れる状況ではない、ということである。たとえ出向するのが、裁判官であっても、身分を入れ替えられ、組織の一員になることに、「疑念」を越える「信頼」が国民の中に果たして醸成されているのか、という問題である。
かつての議論を目にしてくると、どんなに弁護士界が主張しても、ことが動くためには状況が必要であったように思えてしまうことには、本質論からすれば、奇妙な違和感も覚えてしまう。「疑念」も「らしさ」の問題も、ずっとそこにあり、現実的な弊害を指摘する見方だってあったのだから。
在朝法曹の「プライド」で覆われたシールドが、国民の「信頼」と「疑念」によって破られる時、官僚司法というシステムの正体もはっきりと姿を現す。