司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 3月12日にさいたま地裁に開かれた首都圏連続不審死事件の裁判員裁判での論告求刑公判で、起訴された3件の事件すべてで、直接証拠がなく、間接証拠による判断を迫られている裁判員に対し、検察官が次のような比喩を使ったことが報じられている。

  「窓の外には夜空が広がっている。夜が明けると、雪化粧になっている。雪がいつ降ったかを見ていなくても、夜中に降ったと認定できる」
  「誰かがトラックで雪をばらまいた可能性もあるが、そんな必要もないし、健全な社会常識に照らして合理性もない」

 後者は、「疑わしいだけの場合は、被告人に有利にならなければならない」と無罪を主張する弁護側の冒頭陳述に触れて言われたとされている。この検察官の発言について、テレビのニュース番組でコメントを寄せた元検事の弁護士は、要するに「疑わしきは被告人の利益に」という原則で、その「疑わしい」程度とはどのくらいのものなのかを裁判員が分からないので、こうした形で例示されたという趣旨の解釈を加えていた。

 この検察官の喩えは、ある意味、分かりやすい。だが、それだけに、報道が事実だとすれば、逆にこの検察官の発言の効果は、二つの意味でひっかかる。一つは、いうまでもなく、この発言は、「疑わしい」程度を図るうえで、抑制する方向で、裁判員に例示されていることだ。結論において、「雪化粧」の喩えは、トラックでまいたというケースを、あたかも極端に可能性の低い例として取り上げ、その必要性を排除している。

 しかし、他のケースにあてはめやすい例示だろうか。むしろ、「疑わしい」可能性への思考停止を促しやすくする危険はないだろうか。そもそも、コメンテーターがいう「疑わしい」程度で、裁判員が悩むということを前提にその検証を抑制的に伝えることよりも、むしろ「疑わしい」ことで有罪に心証が傾くところをどこまで被告人にプラスにとらえることができるのかの方が、いきなり裁く側に立たされた者にとっては難しい課題ではないのか。

 そして、もう一つ引っかかる点は、検察官がここで「健全な社会常識」を持ち出していることだ。「健全な社会常識」の反映を期待し、それに基づいて裁けと迫っている裁判員に、前記「雪化粧」の例えに被せれば、「トラックで雪をばらまいた」まで可能性を考えるのは、そうしたこの裁判が求めている形には当たらないというメッセージを送っている。つまり、ここでは「健全な社会常識」に基づいて裁くこと自体を、抑制的に例示しているといってもいいのではないか。

 これも、およそ市民が疑問を持ったものについて、あるいは自分の考えは、「『トラックで雪』の類か」と思えば、それは「健全な社会常識」として、自分が裁く裁判では通用しないと考えるかもしれない。間接証拠による判断への慎重さを、やはりぐらつかせる方向ではないか。

 この裁判員制度がスタートする前、裁くことへの精神的負担や自信のなさから、特に参加への拒絶感が強いとされた主婦層に対して、ある女性検察官がこう説明したという話が残っている。

  「旦那の浮気はどうやって見つけますか?事実認定なんて、皆さんが毎日やっていらっしゃることですよ」

  「旦那の浮気」の発見に例えられて、裁判所に引っ張り出されるかもしれない主婦の肩の荷が下りたという話なるのだろうか。もちろん、言っている方の狙いは、そこにあり、なりふりかまわず、裁判員制度、つまりは裁くということそのものを軽く見積もる話しを市民に伝え、賛同を得ようとしている女性検察官の姿が目に浮かぶ。

 ある意味、今回の「雪化粧」の喩えも、「被告人の利益」につなげなければならない「疑わしい」というこだわりの程度において、抑制的にとえることができるものとみれば、裁判員にとっては、肩の荷が下りる話になるかもしれない。

 専門家の口が出る、市民にとっては分かりすく、かつ、楽になる喩え話の先に、冤罪を生まない、本来あるべき裁判が存在しなくなるかもしれない。これもまた、裁判員制度が引きずっている危うい一面のように思える。



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