和歌山県の資産家の急死をめぐり、覚せい剤を飲ませて殺害したとして、殺人罪などに問われた元妻の裁判員裁判で無罪判決が出されたことが話題になっている(12月12日、和歌山地裁)。直接証拠がない事件の裁判で、判決は第三者による他殺や自殺の可能性を否定しながら、死亡した資産家が覚せい剤を誤って過剰摂取した可能性を否定せず、元妻による殺害に「合理的な疑いが残る」とした。
この結果に対し、メディアに登場している専門家コメンテーターたちは、大方、この結論を「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の原則に忠実にのっとったものといった評価を加えている。直接証拠がない事件にあって、間接証拠の積み重ねによる殺人事件の立証を試みた検察に対して、その中身について厳しい教訓を与えるものといえ、その意味で意義のある結果ととることもできる。
ただ、気になるのは、この判決を受けた裁判員制度と刑事裁判への社会の目線である。ネットなどの反応でも、前記したような方向での評価につながるものは見られる。今回のような社会的に注目され、さらにいえば、メディアの論調から、被告人有罪の方向での心証が社会的に出来上がっているようにも見えた案件で、市民が参加することで、それに引きずられない判断が可能になったなどと、裁判員制度の評価にまでつなげるものだ。
当然、そのイメージは逆に、市民参加のない職業裁判官のみによる従来の刑事裁判であれば、今回のケースは有罪となっていたのではないか、というイメージが前提にあることもうかがわせる。
しかし、その一方で逆の反応も見られる。前記したように社会にある有罪の心証に立脚するものである。つまり、本来、市民の意見を裁判に反映させるのが、裁判員制度の意義であるならば、この社会の心証が結果的に反映できていない制度では、意味がないではないかという、むしろその観点から制度を批判的にとらえるものである。
「ニュースや報道で見る事件と、裁判員として見る事件では全然違うので、先入観は怖いなと思った」
この裁判に関わった裁判員の一人が、記者会見でこう印象的な言葉を語っていることが報じられている(カンテレNEWS)。これは、裁判員制度と刑事裁判をめぐる、二つの危うい現実を示唆しているようにとれる。一つは、彼が率直に語っているように、メディアの報道によって出来上がる事件の印象と、取りも直さずそれによって形成される大衆の心証が、被告人が罪を問われている刑事裁判で明らかにされていく事件の実相と、いかにかけ離れているか、ということである。
「無罪の推定」という原則がありながらも、一方で嫌疑そのものが事件解明のスタートであり、ある意味その原動力にもなる。「疑う」ということを抜きに語れない事件解明のプロセスにあって、いかに伝える側が大衆の中立的で、冷静で、フェアな目線を維持させられるか、また、大衆自身がそれを意識し続けるか、という根本的な課題を提示している。
それは、前記「逆の反応」と書いた社会の意見が、よりその影響の危うさを際立たせているようにとれる。つまり、そのマスコミ論調によって作られた、現実から乖離した大衆の心証こそ、裁判員裁判が反映すべき大衆の「常識」であるようにも、思い込む、そんな民意も形成されかねない、いや、既に形成されている、ということである。
そして、もう一つは、やはり、裁判員制度そのものが持つ危うさである。今回の裁判員裁判の結果が、刑事裁判の原則の側に立ち、ある意味、筋を通したという、前記専門家コメンテーターの分析自体は、間違っていない。しかし、裁判員制度に対する前記のように形成された「常識」と、あるいはそれに反する結論が、世論の批判に転じさせかねない状況の中で、果たしてこれからもすべての場合で、参加市民はこの筋は通せるのだろうか。それを彼らに常に担わせられるのだろうか。
例えば、もし、今回の裁判で、社会の心証に沿った有罪の結論が、裁判員裁判によって導き出されていたならば、どうであったろうか。社会もメディアの扱いも、本件を冷静にフェアにとらえ、前記刑事裁判の原則を貫けず、間接証拠の積み重ねだけで有罪に持ち込んだことを、批判する見方は、果たして出されているだろうか。偏った刑事裁判で本来見るべきものとは違うイメージを形作られた「常識」に沿った、予想通りの結果と片付けられていたのではないだろうか。
職業裁判官と、半ば強制的に駆り出された市民の意識、さらに根本的には、刑事裁判に対する大衆のリテラシー。いずれも程度の問題と括れそうなそれらによって、やはり刑事被告人の立場は、極めて不安定な立場に立たされるように思えてくるのである。