司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>




 政治の世界が追及できないならば、司法の場で――。説明責任が果たされない政権の疑惑をめぐり、ボールを投げられた格好の司法も、またその期待にはこたえられない。今年の司法を振り返ると、そんな姿がまず、印象に残ってしまっている。

 「安倍元首相 再び不起訴」。「桜を見る会」の前日の夕食会を安倍晋三元首相側が補填した問題で、公職選挙法違反と政治資金規正法違反の疑いで告発された同元首相を再び不起訴処分とした、というニュースが、今年の終わりに伝えられた。「十分な証拠は得られなかった」と検察側としているが、「不起訴ありき」で十分な再捜査が行われていないのではないか、という疑惑の目が向けられている。

 「厳正な捜査の結果、不起訴と決定されたものと受け止めています」という、安倍元首相のコメントがメティアに流れている。告発されているという法的な立ち位置だけで考えれば、このコメントは、あるいはその妥当性を問われることはないのかもしれない。

 しかし、疑惑を掛けられ、政治の世界でそれが晴らされていないという、国民の捉え方の先に、前記司法への期待があったことを百も承知であるはずの、元首相という立場の人間の言葉として、これほど自覚を欠き、国民に対して冷ややかなコメントはない気がする。

 利益供与、会計責任者の選任・監督の責任への疑惑を自ら徹底的に晴らそうと言う姿勢は、同元首相にも、この国の与党政治家たちにもない。「それでもいいのだ」「なにもない」と言い続ければ、国民は手も足も出せず、やがて押し黙るだろう――。元首相らの冷やかさから、そんな思惑しか浮かんでこない。

 森友学園問題で公文書改ざんを苦に自殺した近畿財務局元職員の妻が、夫の死の真相に迫るために起こした裁判は、国側の「認諾」によって、妻の思いを閉ざす形で終結する形となった。

 「いたずらに訴訟を長引かせるのは適切ではない」。鈴木俊一財務省が国の立場を語ったという言葉が報じられている。「いたずらに」という表現の無神経さが突き刺さってくる。妻の裁判にかける思い、何がこの裁判に至らしめたのかを彼が百も承知であるということを踏まえて、この言葉を聞くと、裁判長期化への妻の負担に配慮した体で、真相解明の機会を奪う、とてつもない誠意のなさを感じてしまう。この妻にとって、この裁判は仮にいかに長期化しようと「いたずら」、無駄なものにはなりようがないのだ。それを分かっていての発言である。

 「ふざけんなと思います」「カネを払えば済む問題ではない」と妻は言った。まさしく彼女の心の奥底から吹き上がった叫びだろう。

 いずれも一番の責任は、元首相をはじめ国側と、それを追及しない、できない与党政治家たちにある。しかし、司法もまた、無力だった。「残念だが司法に責任はない」。こんな言葉も異口同音に弁護士界のなかから聞えて来る。要は検既存の制度を駆使して闘う側の人間としては、制度がある以上、そこは問えない、という話である。

 「桜」夕食会の件については、検察審査会の議決が「起訴相当」ではなかった、ということもある。検察の「十分な証拠」という弁明に関しても、法的なハードルについて指摘する人もいる。

 司法はこの事態に無力さを曝したが、それは、ある意味、いつもながら「限界」という見方に落ち着くかもしれない。しかし、これからもずっと無力でいいのか、ということになると、そこは意見が分かれるところだろう。今、司法改革というのであれは、おそらく国民の中には、この無力さをなんとかする「改革」は、あり得ないのだろうか、という気持ちか生まれても当然だ。少なくとも、裁判に国民を動員して、「裁きの場」に立たせる「改革」よりも、政治の不作為による不透明感に、きちっと切り込める司法への「改革」に期待したくなるはずである。

 われわれ国民に出来ることは、もちろん、一義的には、期待にこたえられる政治家を選ぶことである。しかし、法律家は、政治に裏切られた国民の期待に、司法が十分にこたえられるための立法の必要性を、もっと喚起すべきであるように思えてならない。



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