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 ウクライナとガザで展開されている、二つの戦争に対し、日本の大手メディアは、両者にはっきりと違う論調を掲げている。端的に言って、それは「停戦」への姿勢の使い分けといっていいものである。

 前者については、ロシアの一方的な侵略行為とし、ゼレンスキー大統領が呼びかける領土完全奪還までの、諸外国に支援を呼び掛けている徹底抗戦という戦争継続を批判せず、「停戦」を一言も口にしないのに対し、後者については早々に「停戦」「休戦」「人道」を掲げ、まずお互いに戦争行為をやめるよう求めている。

 この点について、今のところ、メディアは明確な弁明をしているようにはとれないが、いくつかの点で、その使い分けの理由は説明されるかもしれない。例えば、不当性の判断において公平性を考慮している、ということ。前者については、一も二もなく、ロシアを加害者、ウクライナを被害者とみるのに対し、後者はハマスの残虐的な民間人への攻撃が先行していても、その要因がイスラエル側のパレスチナに対する政策に端を発しているといった事情や、早々にイスラエル側が掲げた報復から、ガザでの大量の民間人の犠牲が想定される、といったことである。

 だがあえていえば、ウクライナに関しては、当初からロシア側の侵略根拠となったとされるNATOの東方拡大や、親ロシア系住民保護といった要因とされる事象を、パレスチナをめぐる両者の歴史的要因ほど、そもそも取り上げる気がないようにみえるのもまた事実である。

 また、ロシア側の攻撃で民間人に被害が出ているということは伝えられるが、一方でウクライナの徹底抗戦が、ウクライナ民間人の命を危険にさらすのは芽衣伯である以上、こちらの被害には目をつむり、「停戦」という選択肢を除外するという理屈にも無理がある。

 これに関しては、早期の「停戦」が結局、侵略者・ロシアを利することになるとか、交渉に有利な状況になるまでのウクライナの攻勢の成果を期待し、その後に「停戦」に、という描き方もいわれるが、それはやはり民間人(動員される兵士も含め)の犠牲をとにかく出さないで、問題解決を模索すべき、という姿勢ではなく、むしろそれを早々に断念した発想である。

 抵抗権・自衛権を持ち出す論調もある。国連憲章51条が持ち出されもするが、今回、そもそもロシア側も国家承認したドネツクとルハンシクの両人民共和国からの軍事支援の要請基づき主張しているように、個別的又は集団的自衛の権利は、常に戦争当事国の正当化の論理に組み込まれる宿命にある。ソ連の、1956年ハンガリー、68年にはチェコスロバキア、79年にはアフガニスタン侵攻、アメリカの1965年ベトナム、1983年グレナダ侵攻など、戦争の口実化に多用されてきた。

 今回のカザでの戦争でも両者の言い分となり得るが、前記ウクライナ戦争に比べ、取り上げ方が公平である。要は、「絶対に許されない」として、一方の視点を排除する扱いと、「絶対に許されないが、」としながらもう一方の視点を拾い上げる姿勢という露骨な違いがそこにあるようにとれるのである。

 結局、自衛権から正当性をたぐり寄せる論調は、およそ戦争抑止にはつながらず、いかなる場合においても、「即時停戦」を求める以上の平和的決着への道はないはずなのである。ウクライナ戦争にあって、「即時停戦」が不都合であるという理屈は、少なくともこれ以上民間人の犠牲を出さないということにおいてはあり得ず、また、一重に領土奪還のためには民間人を犠牲とする戦争が肯定されるという論拠に立たない限り、あり得ないといわなければならない。

 そして、一番の問題は、日本の基本的な立場である。わが国は、国際紛争の解決手段として、戦争を永久に放棄している国である(日本国憲法9条1項)。日本のスタンスには、当然、同盟国アメリカの姿勢が影響していることは明白だが、ウクライナへの人道を含む支援が領土奪還のための戦争継続を支援するとられることからは本来、一線画す必要すらあるはずなのだ(「『停戦』を前提としない『支援』の見え方」)

 以前、北方領土問題で元島民の男性に「(戦争をしないと)取り返せない」などと発言し、問題となった日本の国会議員がいたが、これを批判することと矛盾する、というか、もはや批判できなくなるように感じる。

 やはり、私たちは、この戦争をめぐるメディアの姿勢に、今こそ、敏感であるべきだと思える。



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