SNS上に溢れている石破茂首相に対する批判的な声の中に、「決められない政治」という文言が多くみられることに複雑な思いが湧いてくる。いうまでもなく、政権が少数与党という現実を抱えていることもあるが、世論調査での内閣不支持の理由の上位に、「実行力のなさ」という彼の資質によるととれる意見が入る。就任早々、前言を覆したととれる「変節」を印象付けてしまったことも響いているという見方もある(NHK世論調査 「石破首相の『変節』を生んだもの」)。
しかし、違和感を覚えるのは、そこではない。相変わらず「決められる政治」を求め、「決められない政治」を悪とするような、国民の中にあるとらえ方と目線についてである。安倍・菅政権で国民は何をみせられてきたのか、ということをどうしても問いたくなってしまうのである。
もはや繰り返すのも妙な気になるが、彼ら自民党政権が、民主党政権批判のなかでも、あるべき形として最上段に振りかぶってきた「決められる政治」の正体とは、批判や議論を求める声に耳を貸さない政治だったことを、国民は安倍・菅政権で目の当たりにしたはずだ。
そして、それは逆に「決められない政治」であればあるほど、政権は熟慮や議論を余儀なくされることであり、むしろそれによってより民主主義的な政治も担保されることが痛いほど明らかになったことも意味した。それは、同時にあたかもこの国の政治、あるいは国民にとってふさわしいと彼らが強弁してきた「決められる」が、実は自らの権力行使と独裁にふさわしいものとして求めていた、といういわば、化けの皮も剥がれたはずなのである。
それでもなお、「決められる政治」を求める国民の心情には、一体、何を見るべきだろうか。一つには、もちろん国民の中にあるこの国に対する閉塞感はあるだろう。何かを変えてくれるのは、「決められる」政治家であるという待望論が、前記反民主主義的な、熟慮と議論を顧みない政治への警戒感を曇らす。
そこには、「強いリーダーシップ」といった表現で、より「決められる」ことの方をより肯定し、それへの警戒感を喚起しない大メディアの取り上げ方の影響も大きいようにとれる。「決められない政治」の問題性を、政治に対する善意解釈でとらえれば、当然、国民にとって有意な政策が、実行できず、停滞してしまう弊害を言うことになるが、多くのメディアが、それと比した反民主的な決定の弊害、それによって失われるものの大きさをフェアに扱っていないようにとれる。つまり、「国民にとって有意な政策」という前提に立つ見方が、そもそもその前提を議論するプロセスの問題を看過しているような印象すら持つ。
もう一つは、要素は分断だろう。既に世論の分断を受け入れ出している国民の多くが、民主主義的な包摂的な議論に価値を見出さず、一足飛びに何かを実現する政治を期待しているということである。しかし、大きな反動が予想される民主主義的な危機ともいえる。それこそ「強いリーダーシップ」に牽引され、それに盲従することで、気が付けば、後戻りができない民主主義の崩壊を招く恐れがある。反対論を付け合わす議論とそれに基づく熟慮によって、国民も思い込みから目覚め、自らを正しい判断に軌道修正する可能性はないだろうか。
石破首相が「決められない」ことで、我々には得られることもあるのではないか。もし、「決められる」状況ならば、今の政策・懸案に対する議論状況は違っていたはずだ。「決められない」といことが、数によって強行するという熟慮と議論を回避する手法を打たせないこと、そして、本来的には意見が分かれるということそのものに、回避すべきではない議論の余地があるということを考えれば、むしろその健全さを我々は感じるとるべきではないか。
その意味では、国民の中から頭をもたげる「決められない政治」批判そのものにも、我々は注意深く、見つめていく必要があるように思えてならないのである。