テレビで顔が売れている著名人二人の対談番組で、コロナワクチン接種の是非がテーマになっていた。一人は接種慎重派で、もう一人は推奨派。慎重派の言い分は、自分が他人にコロナウィルスを移すということを考えたら、いたたまれないが、治験が不十分なワクチンの危険性を唱える専門家と、推奨派の専門家のどちらの言い分を取るか判断しきれず、保留している、というものだった。
これに対して、推奨派の彼は、はじめからその考えに嘲笑的で、頭からワクチンのメリットを考えたら、接種を躊躇する選択などない、といった調子。さらには、人類最先端の未知のワクチンに自分がかかわることに喜びを感じている、といった趣旨の発言までなされた。
この対立をそのまま流した、この番組は、それなりに意義があり、この問題に対するアプローチとして、健全であるように思える。ワクチン接種が進む中、前者の慎重派の言い分は、一定の大衆の気持ちを代弁しているし、共感する人も少なくないと思う。しかし、こうした大衆の中にある、不安感の声と、その中身をメディアはまともに取り上げなくなっている。
透けて見える理屈といえば、コロナ対策は、目下、ワクチン接種にかけるしかない、そのため、接種の不安をかき立てることにつながる論調は、極力排除し、接種に前向きな世論のムードをリードすべき、それが正義とする「バイアス」であるようにとれる。
ネット上では、ワクチンの危険性を指摘する、専門家によるものを含めた多くの論調が存在している。若者に接種慎重派が多いのは、そのネット論調にそれだけ触れていることによる、という分析もある。だが、そういう論調を多くのメディアは、前記大義名分を匂わせながら、取り上げない。「フェイクニュース」「陰謀論」のごとく、扱うものもあり、それらは前記論者同様、頭から嘲笑的に見えたりもする。
ワクチンしか目下、コロナ禍の「出口」が見出せないとしても、今回のワクチンは治験の期間が決定的に短く、緊急・例外的に生み出された感は否定できない。推奨派からは、副反応や接種後死亡との因果関係について、さまざまな「弁明」がなされているが、慎重派の言い分にちゃんと耳を貸すほど、その「弁明」がそれを凌駕できるほどの信用度を持っているとも言い難い。結局、最後は責任も絡み、「自分で決めて」という話で終わってしまう。
「やっぱり少数派にはなれない」。接種を決めた知人は、そう語った。前記したような、どちらが正しいが選びきれない状態のまま、どちらかに多数派が形成されれば、そちらに従うしかないという諦念。意外と現在のワクチン接種派には、こういう人も少なくないのではないか。
「赤信号、みんなで渡ればこわくない」という日本人の性向を皮肉っているととれる言葉を思い出す。禁じられていることでも、集団ならば、実行への心理的抵抗感を減退させてしまう姿を描いている。もちろん、ワクチン接種は禁じられているわけではなく、一部「黄色信号」をかざしている人がいるだけである。見方によっては、なおさら「みんなで渡れば」となっておかしくない。
コロナ撲滅のために、社会が協力して臨もうとしている「大義」から、ある意味、勇気を持ってワクチン接種を決めた、という人には、こういう例え方は、不謹慎あるいは無理解といわれるかもしれない。
しかし、それでも「黄色信号」の存在をフェアに伝えないのは、どうしても不健全に思う。最近、「楽観バイアス」という言葉が、菅首相の「人流減少傾向」発言などコロナ禍に絡む楽観的な見方に対して、批判的に使われる。五輪強行もそうだが、「楽観バイアス」は、大衆の危機意識の共有を阻害するという言い分だ。
それはその通りかもしれないが、逆のことはワクチン接種についていえないのだろうか。どんな危険性が考えられるのか、どういう論者の言い分があって、それに別の論者はどう反論しているのか、また、できないのか、それをフェアに提示して、国民が判断する――。
仮にコロナ対策としては、不都合になろうとも、国民にフェアに判断材料が与えられるという、前提は、やはり軽視するべきではない。薬害の歴史を挙げるまでもなく、その時に疑うことの大事さ、疑う機会が奪われることで生まれる、のちのちの被害の大きさに思いを致すべきである。判断を最終的に自己責任に委ねるのであれば、なおさらである。
こういう状況であればこそ、この「健全さ」を失うことの危うさについても、少し立ち止まって考えたい。