新型コロナウイルスにかかる緊急事態宣言による政府、自治体のいわゆる「自粛要請」で、文字通りこの国の社会的ムードは一変した。外出や営業を控えるよう求めるという、自由の制限に踏み込む対策。得体が知れないウイルスへの、今、われわれができるほとんど唯一の方法として、国民に提示されて生まれた「効果」という意味では、ここで使われている「自粛」も「要請」も、その本来の意味から、外れてきているという気さえしてしまう。
私たちの社会は、表層的には「安心」のために、「自由」の制約を止むを得ないものとして受け容れた格好になっている。多くの人は、疑いもなく、そう言うかもしれない。しかし、「要請」して「自粛」してもらう、「要請」されて「自粛」しなければならなくなった、という、言葉の持つ意味のちぐはぐさは、そのまま、いま起きていることへの違和感につながっている。自らに選択の余地がない判断を迫られた末の決断と、それを分かって迫る行為を、そう呼んでいるだけではないのか、と。
そして、この状態の違和感を辿ると、さらに大きな疑問に突き当たる。私たちの社会が選択している「自粛」は、本当に新型コロナウイルスだけを恐れて導き出されているものなのか、という疑問である。私たちの社会の多くの住人は、「自粛」を受け容れないこと、そのものを恐れていないか。つまり、この「自粛ムード」とは、社会の同調圧力そのものを表しているのではないか、ということである。
「不要不急」という、外出に関する基準は、各自の抱えた事情による判断が許されるという建て前が抜け落ち、他人の、あるいは社会の評価をより厳しい方向に向けさせ、それをまた恐れるムードを社会に広げる結果となった。メディアが日々、この状況下で街に居る人を映し出す映像は、常にやや批判的で、新型コロナウイルスの危険を理解せず、対策に非協力的な「こんな時にけしからん」人々として、今も流されている。
コメンテータだけでなく、聞こえてこない同国人の批判の声が多くの人には聞えているはずである。そして、彼らは一も二もなく、「けしからん」とされる側になることを恐れたのではなかったか。ある人は、この状況に「不謹慎狩り」という言葉をあてはめた。「自粛」しない向こうの感染する(させる)結果は怖い、しかし、直接それにつながるかどうか以前に、結果的に批判される側に身を置くことで、社会から孤立し、白眼視され、指弾されるのも怖い――。
善意から感染防止に協力しているという人もいるだろう。しかし、「不要不急」という条件や、あくまで個人が選択できる「自粛」である前提を素っ飛ばして、「圧力」となるムードは結果的に作られ、その善意の協力も、事実上ムードを作る加担者に組み入れられてしまう。マスクがなければ、街を歩くことも、店にも入れないムードは、それこそ個人の判断による、工夫や配慮の有無を飛び越えて、もはやできつつあるといっていい。
自粛要請には補償がセットである、ということが言われている。憲法上の要請であり、国も正面から否定することは本来的にはできない。多くの国民も、切実な問題として受け容れるはずである。ただ、その一方で、補償なき自粛、補償が見通せない自粛ならば受け容れない、と強く言えるかといえば、前記ムードのなかではそうも容易にはいかない。
補償がなければ実効性がない、ということは一面事実であり、この状態が長期化すれば、まさにその通りであることが証明されるかもしれない。しかし、前記ムードは、この点で事実上の泣き寝入りや断念を迫る方向にも作用しかねない。
最も嫌な想像は、こうしたことがすべて想定のうえで、この「自粛要請」がなされている可能性である。実質的に国民に選択の余地がなく、同調圧力によって強制的な効果を生み出す「要請」を、あくまで自己責任に置き換えられる「自粛」について行う。そして、その結果として、現実は、冒頭の違和感を乗り越えて、より強い、より強制に近くなるものを国民側が求めるムードまでを作りだした。そこまでが、あるいは計算されていたかもしれない、という想像である。
あくまで開業するパチンコ店を公表したり、結果、休業に持ち込む事態に、この社会のムードは批判的ではない。補償がみえない店の経営判断への理解よりも、国民の努力に非協力なパチンコ店を追い込む「正義」だけを切り取り、強権的な行為を肯定する見方、そこに疑問を抱かない空気が支配している。「自粛」への個々の判断を許さない、社会的排除の色彩が強い空気である。
コロナ後の社会というテーマが語られ出している。さまざまな産業構造の変革や、国民生活そのもの変化が、この経験によって必然的にもたらされるといわれている。ただ、その未来について思う時、現在のこの空気は、極めて危険な兆候として私たちは銘記すべきだ。国民の自由や権利を奪い、あるいは民主主義を破壊し、監視社会を作り上げる。その道を、国民自らの手で選択し、そして引き入れてしまう、このコロナ禍という状況に潜む危険に、私たちは今こそ、気付く必要がある。