司法試験の予備試験について、東大、京大など合格上位の6法科大学院が受験資格制限を提言した。報道は、経済的事情等で法科大学院に行けない人のための制度が「近道」として使われ、そのことから法科大学院志願者の原因の一つが、予備試験にあるという認識から今回の提言に至っていることを伝えている。要は「抜け穴」をふさいで、流れを「本道」に向けたい、という趣旨である。
本来予定されていた形でないことが、結果として足を引っ張っているということが強調されれば、その「不当な」予備試験の現実と、今回の法科大学院側のもっともな要求という形で社会に伝えられるかもしれない。しかし、私たちが、今、改めてとらえ直すべきなのは、「強制」という問題ではないだろうか。取りも直さず、この点こそ、「改革」推進派、法科大学院擁護派の自覚を問うべきと思えてならないのである。
そもそも司法試験の受験資格要件化という、「本道」への「強制」手段をとった法科大学院制度は、大きな理念を掲げながらも、教育によって提供できる「価値」への自信、選択される制度にするという確信よりも、「強制」しなければ選択されない、定着しないという、脅威に裏打ちされたものだったといえる。ただ、それでも法曹養成の「中核」と位置づけられたこの制度が、一定の価値を提供し、それが評価されることで、この「強制」が正しかったことになる、と想定した人間たちは沢山いただろう。
ところが、今に至るまで、その価値に対する社会的な評価は確立していない。そして、そのもっともはっきりとした反応として現れたのが、制度利用者の法科大学院離れ、つまりは「予備試験」の現実ということができる。利用者は司法試験に合格できない、経済的時間的負担に見合わない「本道」に価値を見出さなかった結果として、予備試験を選択しているのである。
予備試験の受験を制限することは、その利用者の反応に対して、再び「強制」によって、「本道」への誘導を試みようとするものにほかならない。しかも、その効果そのものも疑問視されている。「価値」を提供できないまま、いわば利用者の反応を無視して、さらなる「強制」によって、いわば無理やり「本道」に誘導するわけだから、当然のことながら、今度はまるごと法曹界が志望されなくなるだけ、という見方が出ている。
既に内閣官房法曹養成制度改革推進室が予備試験の受験資格制限は困難という立場を、法曹養成制度顧問会議で明らかにし、そのなかでも現段階で制限は逆効果という見方を示していると伝えられる。また、同会議では参加委員からも制限は困難であり、資格試験の年齢制限は憲法上の問題があるとの意見まで出されている(「『予備試験』制限をめぐる一場面」)。こうした動きをもちろん、提言を行った6法科大学院の関係者が知らないわけもない。むしろ、彼らは、これにより危機感を持った末の行動とさえとれる。
彼らは、なぜ、ここまで「強制」を口にできるのだろうか、という疑問もわいてくる。「予備試験」によって、輩出される人材が、法科大学院から輩出される人材に比べて劣るという現実は今のところない。ないどころか、むしろ優秀な人材としての評価が下されはじめている。「強制」化に胸を張る立場は、いずれこの立場が逆転し、なるほど「強制」までさせてもプロセスを経ないと、法曹としてはダメだ、という状況を作る、作れると考えているという理解でいいのだろうか。
そもそも「予備試験」が「近道」とか「抜け道」として利用される、彼らの懸念の第一が、法科大学院への影響であり、どうもそれによって法曹の質が低下するという不安が一番に語られていないことに、彼らの心底が透けて見えてしまう。もっとも、これを言い出せば、いくら「プロセス」の効用を唱えたところで、現役法曹をすべて「欠陥」と位置づけられるわけでもない説得力のなさは、この制度がそもそも抱えていたもの。もともとそれを正面から勝負して、立証させるという自信がないからこその、受験資格化と考えれば、はじめから彼らの心底など分かっていたということもいえてしまう。
改めてこうでもしなければ利用されなくなるという向き出しの脅威に押されたような提言を、こともあろうに司法試験合格者輩出の実績があり、この国で今後もその役割を担うと想定されているような大学が行っている。それが、新法曹養成がたどりついた現実である。
以前、日本に来ていた外国人研究者が、法科大学院制度をいかにするのか、という日本の論議を見て、一言「いずれにしても、このままでいけば、予備試験の結果が答えを出し、結論を出してくれるのではないか」と語ったのを覚えている。今回の6法科大学院のアクションは、答えは出ていないことにして、結論を出さないためのものともとれるが、現実は確実にその研究者が言った方向に向かっている。