安全法制反対で立ち上がり、発言する若者たちの姿は、少なくとも彼らをステレオタイプに「政治的無関心」層というイメージのなかでくくってきた大人たちの側の、認識不足を明らかにしたと思う。しかし、その彼らの姿へのバッシングととれる論調が、著名人やネット発言者とくくられる大人たちから聞かれる(弁護士 猪野 亨のブログ)。
政治的な関心を若者たちが示し出したとたんに、彼らを動かしている危機感を読みとるのではなく、まるで上から目線で繰り出される根拠薄弱な「未熟さ」批判は、むしろその大人たちの未熟さを露呈しているようにみえる。外国人特派員協会で講演した漫画家の小林よしのり氏は、若者たちの未熟さを認めながら、その「目覚め」に注目し、「特に持ち上げること」はしないとしながら、バッシングは「大人としてはみっともない」と語った(BIOGOS「小林よしのり氏が安保問題で会見」)。
彼らのバッシングをみると、「思い込み」といってもいい、二つの前提がみえてくる。一つは、「対案」路線信仰。「対案を出せ」、「出せないものには批判する資格なし」という論調を、まるで議論の前提のように振りかざすことが当然のような姿である。しかし、現状維持をいう意見、現状で問題なしという立場、改変が悪化でしかないとみる立場からすれば、批判と撤回を求める以上の「対案」の用意の仕様がないし、それがりっぱな「対案」だ。こうした局面で繰り出される「対案」要求は、しばしば説明しきれない、こちらを論破できない側の、責任転嫁の論調であると同時に、時にこちらの妥協を引き出す試みにもなってきた(「『提案型』と批判・抵抗者の役割」)。
むしろ、まるで「あるべき議論」の当然の前提のように扱われてきた「対案」主張のおかしさに、今回、多くの人は気づいたのではないだろか。「対案」ですり合わせるという局面にはならないテーマが存在し、その場合に徹底的な批判論を「対案」論にすげ替えられる不当性についてである。
そして、もう一つはその「対案」主張を、さらに正当化する前提となっている、彼らのいう「危機感」だ。若者たちの主張を自らが戦争に行きたくないという「利己的」なものだとか、「平和ボケ」とするバッシングは、あたかもこのままでは放置できない国家的な危機に対して、その認識の甘さを強くイメージさせている。その放置できない国家的な危機、「対案」を用意しない国民が無責任であるかのごとき主張をする側が、その前提事実について十分に説得的であるとは思えない。
繰り返される近隣諸国の脅威。ただ、法案の批判者が、その脅威と法案の脅威を秤にかけていないという前提には立てない。「戦争法案」という表現の不当性を批判する賛成派からは、必ず「戦争しないための法案」であるという強弁がなされる。そこには、近隣諸国の戦争につながる脅威を、法案に国民を納得させる糸口にする狙いが透けてみえる。しかし、そのことそのものに、法案を批判する国民、少なくとも今、強行することに否定的な国民は、実は冷静なのではないか。そして、その狙いと、その脅迫めいた手法そのものにも危うさと胡散臭さを感じ出しているのではないだろうか。
ナチスドイツの国家元帥を務めたヘルマン・ゲーリングが、戦後戦犯容疑での収容先で米国の心理学者に語ったという、この言葉――。
「国民は常に指導者たちの意のままになるものだ。簡単なことだ。自分達が外国から攻撃されていると説明するだけでいい。そして、平和主義者については、彼らは愛国心がなく国家を危険に晒す人々だと公然と非難すればいいだけのことだ」(すずきさとる新聞【Web版】)
なぜ、このゲーリングの言葉が、今の日本の状況に被せられ、ネットで流通しているのか。この言葉に多くの人が日本の今を連想し、安倍政権が推し進める安保法制の危うさと胡散臭さと、ゲーリングがいった権力者の本音を結び付けているからにほかならない。
近隣諸国の脅威に対して、米国の戦略追随の脅威が、より「戦争」に近いとみる法案反対者を説得できないのは、あくまで安倍政権である。「対案」要求も、「近隣諸国の脅威」だけを振りかざすのも、彼らの劣勢を示す。ゲーリングのいった悪魔のような権力者の思惑は、跳ね返されようとしているのである。
現実に対して、盲目なのは、一体、どちらなのかということを問いかけたくなる。bsp;