司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 今国会提出がいわれている、いわゆる「共謀罪」法案について伝える報道のなかに、度々「世論対策」という言葉が登場している。例えば、テロ対策を強調し、政府が「テロ等準備罪」と言い換えてきたが、実際の法案の条文には「テロ」という表記がどこにもなかったことを挙げ、これは「世論対策」という批判が出そうだ、と。

 

 また、600以上あった原案の対象犯罪が、今回の法案では277に絞られたことも公明党の意向を汲んでいるとはいえ、世論を意識した対策との見方が、当然のようにされている。

 

 ただ、いったん目を離してみると、当たり前のように登場するこの言葉の使い方に、奇妙な違和感を覚えた。それは、この「対策」という言葉の使い方の妙な「軽さ」である。要は、「テロ」という表記を使うことが、指摘されている法案の問題性を覆い隠す、目をそらすものとして登場しているということが、ここで「対策」といわている中身である。対象事件を「対策」として減らしましたというのならば、初期の対象化は何だったのか、本当に必要だったのか、対象化はミスだったのか、それとも除外にふさわしい理由が発見されたのか、そういうことは全く示されない、確たる釈明もない「対策」の結果である。

 

 ポピュリズムという言葉をあてはめるべきなのかもしれないが、むしろ「世論」がもともと本質的な問題を問うものとして扱われていないということを意味していないか。「対策」とは、まさに本質的な整合性や意味にかかわるものではなく、これくらいを当てがっておけば収まり、通りがよくなるもの、と見られている「世論」に対する手段に過ぎないと思えてくるのだ。

 

 もちろん、政府側が「これは世論対策です」と言うことを憚っているとれば、いまや「世論対策」とは前記批判の言葉になるように、そうした表層的な意味で使われているということが前提だからである。いわば物事の本質的な理解のうえに同意を得る行為というよりは、言葉は悪いが、騙してでも、繕ってでも、有効になればいというのが、ここで対象となる「世論」であり、また「対策」ということになる。

 

 何をいまさら、という声が聞こえてきそうである。この国の治安であれ、防衛であれ、法制度が構築されるに当たっては、常に本質的な情勢理解や内容の妥当性を横に、国民のなかの「脅威」が「対策」として利用されてきたではないか、と。それは、いつとんでくるか分からない北のミサイルであったり、いつ現れるか分からない次のオウムであったり。また、現実問題として、「世論」の反発が政権にも法改正にも大きく影響することもあるのであれば、本質的理解であろうがなかろうが、プラスにもマイナスにも意味を持つのだから、ここに「対策」という発想が登場するのもまた、当然いう捉え方もできるかもしれない。

 

 しかし、あえていえば、それではこの国の国民は常に危険である。あてがわれた「対策」の本当の妥当性にたどりつけない、判断をしないまま、それが有効に作用し、制度ができあがることになるからだ。「テロ」の怖さに「対策」の必要性を求めるあまり、国民にとって危険な法律が作られるということと、同様のことが何度でも起こることを意味する。

 

 国民はそこまで馬鹿ではない、という人もいるだろうし、さらには、国家はそこまで悪くないと信じている人もいるかもしれない。「信じる」ということを前提にしたならば、ここでいう油断ならない状況そのものが伝わらないかもしれない。ただ、前記「対策」は、その「信じる」人たちに有効として繰り出されているということを、まず、疑う必要があるものであることには変わりないのである。

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