裁判員制度が、刑事事件の、しかも死刑判決関与もあり得る重大事件を対象として始まったことは、発足当初から取り上げられ、今でも国民が釈然としない、制度への大きな疑問点の一つにとれる。死刑関与の負担や裁判員辞退がクローズアップされる度に、問い直されることになるこの問題について、これまで制度推進者が用意し、繰り返してきた説明は、彼らが考えるほど、国民を納得させていたわけでもなく、そして、制度が運用されるほどに、その効果ないことを示しているのではないか、といいたくなる。
「すべての刑事事件に裁判員制度を導入すると国民のみなさんの負担が大きくなるため、国民のみなさんの意見を採り入れるのにふさわしい、国民の関心の高い重大な犯罪に限って裁判員裁判を行うことになったのです」
最高裁は、こういう説明をホームページ上で、公開し続けてきた(「裁判員制度ではどんな事件の裁判をするのですか」)。民事事件の非対象化には具体的に言及せず、全刑事事件対象化回避には、国民の負担ということを挙げ、意見を取り入れることが「ふさわしい」ことと、関心度から重大事件限定を説明している。
民事事件に関しては、大量の証拠資料に目を通すことになるなどの煩雑さによる関与しにくさや、私人間紛争に国民関与することへの疑問などが言われる。しかし、行政事件など、国民の関心と民意反映の適切さでは妥当する分野が除かれる説明への十分な答えにはなってこなかったことは否定できず、そこにまず制度的な矛盾をみる意見はある。
最高裁が言う「ふさわしい」ということの理由としては、刑事重大事件関与が人を裁く重さを知らしめる、といった、裁判員制度につきまとう啓蒙的な発想がいわれたりする。従来職業裁判官だけによる刑事裁判の問題性、欠陥性を正面から認めていないこの制度は、民主化をいいながら、その実は、職業裁判官が関与する裁判を民意によって正当化するという本質を持っている。国民の意見を取り入れることが「ふさわしい」のは、「この国の裁判にとって」といわれたところで、本当のところ国民はまだその有難味にたどりつけない話なのである。
負担ということを正面からとらえれば、さすがに推進者側も、死刑関与を含めた精神的負担、重大であるがゆえの責任の重さ、自信のなさをいう、国民の拒否反応も、あるいは、現在進んでいる辞退増という最悪のシナリオも想定できたはずだ。それだからこそ、建て前として、思想・信条まで辞退理由として認めないという立場をとり、違反者を実際に処罰までする覚悟はともかく、刑罰による強制化の「脅威」まで被せた。
また、重大事件の控訴可能性の高さが、一審関与の素人の精神的負担を軽くするとか、裁判員裁判においても繰り返し職業裁判官との共働が素人の不安感解消につながるかのような言われ方もされた。
しかし、前記したようなこの制度の本音ともいえる本質を考えると、負担軽減といいながら、結局、誰に都合のいい話か疑いたくなる。むしろ、前記の強制化も含めて、そこまですることに、国民からは遠い目的を感じとってもおかしくない話なのである。
国民の負担軽減論も、関心論も、まして「ふさわしい」論も、この制度の重大事件限定の根拠としては、そもそも説得力がなく、辞退増の現実を考えれば、効果という意味では、もはや破綻しているといっていい。そもそも、はじめから説明しきれないことを、えんえんと強制される制度の胡散臭さを、国民がこの点からも感じ取ったとして当然なのである。
特定危険指定暴力団系組織幹部の殺人未遂罪などに問われた裁判員裁判で、被告人の関係者とみられる男性が、審理を終えた裁判員に「よろしく」などと声をかけたことが判明し、裁判員に対する請託や脅迫なとの現実化が問題となっている。このニュースを報じたある新聞は、「裁判員を辞退する人も多い状況を考えれば、重大犯罪の審理を市民に委ねる裁判員制度を見直す契機にすべき事案」という法学者のコメントを掲載していた。
市民に委ねるという建て前の裁判員制度が、重大事件に対して脆弱であるということの「判明」は、コメンテーターの言う通り、一つの契機かもしれないが、見直され、問われるべきははじめから仕組まれていたといっていい、この制度の本質である。