司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 「国民の負担軽減」ということが、課題としていわれ続けている裁判員制度。参加する国民の負担を軽くするという文字面だけみれば、結構なことと片付けられるかもしれないが、実は、ここにこそ、国民が監視しなければならないこの制度の本質的な問題がある。

 そもそも「強制」しながら、「負担」軽減をいわなければならないのは、基本的にこの制度に国民が背を向けている、あるいは安定的な支持基盤ができていないことを国家が認識していることの表れともいえる。制度の強制自体、確実に国民の負担になるが、「できるだけ軽減します」という姿勢は、そうでなければ制度が持たないという恐れと、いわばその努力に理解を得ようとする意思に導かれている。

 従って、国民の求めたわけではない制度の「強制」が続く限り、国家は制度を支えるために、この姿勢を取り続けなければならず、そう考えれば、この課題は制度にとっては十字架ということになる。そして、この姿勢は、国民がこの制度を支持するか、それとも「負担」そのものに麻痺するまで続けられるはずだ。まず、国民は、そういう視点で、この姿勢をとらえる必要があるように思う。

 そのうえで、最も肝心なことを押さえなければならない。いうまでもないが、この負担軽減というベクトルは、常に裁判の適正さを犠牲にする、もしくはその危険をはらむことである。時間の短縮化も、手続きの簡素化も、もちろん、その犠牲を公言して行われるわけもなく、負担軽減、つまり参加する「国民のため」の口実のもとに行われる。適正さを犠牲にするわけがない、という国民が思い込めば、裁判が変わってしまうということである。

 そして、この適正さの犠牲とは、取りも直さず、「裁かれる側」の犠牲である。刑事裁判の目的からすれば、本来、主役であるはずの被告人=「裁かれる側」より、「裁く側」を主役にした裁判員制度の基本的な性格がある。したがって、これを推進しようとする側からすれば、その性格づけの上に立ち、いわば当然のごとく「裁く側」への配慮を優先させることになるが、それだけ本来の刑事裁判の目的から、大衆の目線がずらさてしまうという危険をはらんでいる。

 もちろん、「裁く側」主役の正当性を支えるのは、「国民参加」の大義。とにかく、国民の常識の反映とか、司法に国民的な基盤ができるとか、現行司法への理解が広がるとか、はたまたこれは民主主義だという、国民が飲み込んでしまいそうなメリットが並べられることで、「裁かれる側」が主役ではないのか、という刑事裁判の本質にかかわる当然の疑問を一気に飛び越えようとしているのが、この制度であることにも、国民は強く認識していなければならない。

 福島地裁郡山支部で被告人に死刑を言い渡した強盗殺人事件裁判で裁判員を務めた60代女性が、「急性ストレス障害」と診断されたことを踏まえ、既にカラーの証拠写真を白黒にして、裁判員のショックを和らげようとする動きが、裁判のなかで出始めているという。参加を強制する以上、この方向も当然という受けとめ方は、なされるとだろうし、あくまでこうしたことは「適正さ」を犠牲にしない範囲でなされると当局は言い続けるだろう。

 しかし、この件でも、裁判員のなかには、証拠は「赤裸々であるべき」という声もあると報道されている。それこそ、国民の感覚からしても、こういうことが原因で、証拠のリアリティが薄められるとすれば、それは本来の刑事裁判の在り方としてどうだろう、という疑念が芽生えたということだろう。

 この方向は、少なくとも裁判員制度をなんとしてでも維持しようとする側には、極めて不都合だ。つまり、重大事件を訓練も職業的自覚もない、素人に「強制」して裁かせている「無理」というこの制度の本質を浮き彫りにし、「無理」が原因で生まれている「負担」を、裁判官裁判ではあり得ない形で「軽減」するという事態に、飛び越えたはずの疑問、そこまでして「裁く側」を主役にしているこの制度のおかしさに、大衆が覚醒してしまう危険があるからである。もちろ、推進派大マスコミが、およそこの覚醒につながるような、やぶへび論調を意図的に掲げていないことは明らかだ。

 参加する国民への「配慮」として、繰り返される「負担軽減」を課題とする姿勢の裏で、この制度が本当に問われなければならないのに、問われないできた本当の問題が隠されていることに、われわれは自覚的でなければならない。



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