司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 2009年の裁判員候補通知を受けながら、これを拒否したことを実名とともに公表している男性が、最近、行われた座談会で、次のように述べている。

 

 「私の一番の拒否理由が死刑判決問題でした。心の傷になると思いました。素人が3日間の審議で人を死刑にしたり、一生刑務所に閉じ込めたりすることを決めるなんて、興味や軽い気持ちでできるはずはありません」(「裁判員制度はいらない!全国情報」第73号「2016年新春座談会」)

 

 いうまでもないことだが、およそ特別な感情とはできない一般的なものといっていいだろう。彼のように、拒否の意思と実名を公表し、記者会見まで開いている「勇気」の持ち主だけの感情ではない。ある意味、人を裁くことに対して、まじめに真摯に、そして謙虚に向き合っている、この気持ちは、これまでも沢山耳にしてきたことである。

 

 ただ、その度に思うことは、裁判員制度は、このまともで、一般的な市民感情、あるいは民意と置き換えられるものをどう扱ってきたのか、ということだ。裁判員制度推進派が繰り返しいってきたことは、これが民主主義的な制度であるということだった。司法にも、裁判への直接参加によって、その結果に民意が反映されるシステムは、あたかも民主主義国家として望ましいという扱いである。

 

 しかし、裁判員制度は、そもそもここに大きな矛盾があったというべきである。この制度をそうした発想のもとに、市民の直接参加の強制を、建て前上司法を変える唯一の手段として導入することに対して、それこそ民主的な合意形成ができているとはとてもいえなかったからである。世論調査を通して、制度に民意がはっきりと背を向けるなかで、民意の反映を重視する制度を急ぎ導入するという、乱暴な矛盾である。

 

 前記したような、まともな市民の感情と民意は、結局、まさに乱暴に無視され、乗り越えられようとしたのではなかったか。よく前記のような市民感情は、裁くことに対する「抵抗感」と括られた。それは、あたかも市民が意識を変えることによって、民主主義国家の住人として、当然、乗り越えるべき「抵抗感」として描かれた観がある。つまりは、民主主義国家として反映されるべき「民意」との切り離しである。

 

 憲法で保障される思想信条との関係では、人権擁護を使命とする弁護士会までが、これを理由に「裁く」ことへの拒否を認めては、真摯な気持ちでない拒否者まで認めることになるという理屈で反対に回った。真摯な理由での拒否者は、まさに制度導入のための犠牲になってもらうという扱いになる。さらに、推進派からは、こうした「裁く」ことへの「抵抗感」を持つ人は、裁判のことを真剣に考えているのだから、こういう人こそ参加してほしい、などという苦しい珍論まで飛び出した。

 

 矛盾は、これだけではない。前記拒否者の発言でも分かる通り、この感情にはプロへの信頼かつながっている。法曹が厳しい選抜と特別な養成過程を経てきたこと。そして、厳しい倫理感も求められるその仕事は、強い職業的な自覚がそれを支えているはずであること。有り体にいえば、「死刑にしたり、一生刑務所に閉じ込めたりすることを決める」のは、そうしたものがあればこそ、可能という理解である。

 

 この考え方が基本的に間違っていると思えないし、推進派の法曹がこれを正面から否定する発言も耳にしたことはない。そもそも市民の強制直接参加がどうしても必要なほど、裁判が劣化しているなどということを当の裁判所は正面から認めておらず、せいぜい市民の常識の反映で「よりよくなる」という捉え方だ。弁護士の一部には「風穴論」などといわれる、この制度がどうにもならない刑事司法を変えるとする期待感のような捉え方もあるが、市民活用論に市民が了解しているかという点へのこだわりが、ここにあるようには見られない。

 

 能力的なことをいえば、事実認定なんだから素人でもできる論の繰り返しで、量刑まで関与させるところを説明しきれない。結局、量刑相場を無視できないことは承知で、前記市民の苦悩に直接つながる関与を制度として譲らない。職業的自覚が支えるということにいたっては、これまた承知していながら、正面からは取り合わず、前記民主主義的意義や効用論が繰り返される。あたかも別の「自覚」を市民に押し付けることで、乗り越えようとしているとしか思えない。

 

 そもそも「改革」は、司法に対する市民の信頼を「お任せ」という描き方のなかに取り込んで、「統治客体意識」などという、捉え方によっては、納税者を侮蔑するような発想をとった。多くの市民は、その扱いを十分に理解しないまま、推進派大マスコミの論調のなかで、この制度を受け入れさせられているということもできる。本来、法曹としては、歓迎すべき市民のプロへの信頼、胸を張るべき能力と職業的自覚を投げうって、この制度の旗を振っているようにもみえる。それを受けとめるのであれば、あくまで司法そのものが変わる努力をするべきであって、また、そのような理解は、およそこの制度よりは民意に近いはずである。

 

 制度推進派から、時々、この制度を「民主主義の学校」などと表現するものが聞かれる。民主主義的意義でなんとしてでもこの「矛盾」を乗り越えようとする、それこそいかにも苦し紛れの言い方に見える。でも、そのことと同時に、裁判は教育機会か、被告人を「教材」なんかにできない、という、まともな市民の常識を、ここでも乗り越えられようとしていることに、制度推進の反民主主義的性格を見てしまう。



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