2009年5月に、裁判員制度がスタートしたとき、当時の宮﨑誠・日弁連会長は談話のなかでこう述べている。
「裁判員は簡単に済むとか、負担は軽いなどとは決して言いません。しかしながら、透明で健全な刑事裁判や捜査を実現することは、市民の皆様にとっても重要なことだと思います。従来の専門家だけの不透明な制度を変えるためには、皆様の参加が不可欠です」
「我々は、市民の皆様が不安や戸惑いをお感じになっていることを、真剣に受けとめています。しかし、検察審査会での永年の経験や、戦前の陪審裁判における経験からすれば、我が国でも市民の皆様が参加する刑事裁判が定着すると確信しています」
あれから9年、この制度は日弁連会長が確信したように定着化への道を歩んできただろうか。そして、彼が言ったように、そもそも「参加が不可欠」な制度としての認識はこの間、市民の間に広がったのだろうか。
このことへのはっきりとした疑問につながるデータが示されている。最高裁によると、選定された裁判員候補者のうち辞退した(辞退を裁判所に認められた)人の数は、9年間じりじりと上昇し、昨年は過去最高の66.0%、今年に入り3月末までの実績では、69.6%に及んでいる。制度開始当時83.9%だった選任手続き期日の呼び出しに応じた候補者の率(出席率)は、下降し続け、昨年は63.9%となった。
国民のコンセンサスという意味では、裁判員制度は、もともと国民が背を向けていることがはっきりしているところからスタートしたものといえる。それだけに、推進派の導入キヤンペーンでは、死刑関与を含めた参加市民の負担については十分周知させず、むしろ「誰でもできる」といわんばかりの裁判関与の現実的負担を軽くイメージ化させるものが前面に出された印象があった。
その意味では、裁判員制度は、その現実が伝わるほど、むしろ市民の敬遠傾向が強まったとしても何も不思議ではなかったといえる。審理期間の負担としては、昨年実績で平均10.6日、否認事件では13.5日、2016年で見ると、総数で最も多い機関は6~10日、次いで11~20日(自白事件に限れば二番目に多いのは3日)となっている。勤め人が審理にあわせて10日休みをとる負担は相当重く、可能性についての現実感を持てなくても当たり前のレベルである。「負担は軽いなどとは決して言」わないでは済まないものだった。
強盗殺人事件に関与した裁判員が、証拠調べで殺人現場の生々しい写真を見るなどしたために急性ストレス障害になるという問題も発生。当局はこうした問題の再発に配慮しなければならなくなったが、「裁く側」の役割を考えれば、見せなければよい、ということにはならず、むしろ制度の無理を露呈したともいえた。当然、市民にもそう伝わっていておかしくない。
参加市民の制度体験が共有されれば、制度理解が進むとばかり、裁判員経験者の「やってよかった」コメントが推進派からメディアを通じて流されたが、その評価はともかくとして、現在の状況は、少なくともそれが流されたうえでのものであることも踏まえなければならない。
弁護士の評価は分かれている。肯定論の多くは、制度以前の刑事裁判からの前進論が多く、閉ざされた官僚裁判官の判断に市民の目を入れたことの意味を依然繰り返し評価する(「風穴論」)。「現在の制度に課題があったとしても、これを活用せず、廃止して、職業的裁判官のみの裁判に戻せというのか」といった切り口を、否定論者にぶつけている。
一方、否定論者の中には、刑事裁判の在り方として、望ましくないという声が強い。例えば、制度の宿命として時短と「分かりやすさ」が強調され、「お膳立て」としての公判前整理手続きに力点が置かれ、長期化している。その結果として審理の展開によって、より十分な審理を求めたくても求められない。裁判員の負担、時短が優先されることで、公判廷で証拠も絞られてしまう。つまりは、この制度を成り立たせる、市民を迎えるということが優先されるあまり、十分で適正な手続きが担保されていないという方向の批判論である。
制度導入の旗を振ってきた裁判所や日弁連はどうであろうか。当初、裁判への市民参加に反対だった最高裁は、ある時点から、「民主的」「裁判への理解」という観点で、この方向を受け入れ、制度導入の旗振り役に回った。しかし、そうしたことの意義に裁判所が目覚めたわけではなく、現実は、これまでの官僚裁判制度を維持できる見通しが立ったから、ととることしかできない。
職業裁判官とともに裁くことで、素人参加の不安点を補完・解消する建て前の制度で、前記お膳立ての公判前整理手続きから評決に至るまで裁判官の判断の影響力を行使・反映でき、かつ、控訴審で職業裁判官だけの審理で、一審の判断を覆せる制度だからである。「このような制度設計、そして官僚裁判官と裁判員の情報格差、実力の違い等を見れば、裁判員制度は国民参加という一見民主的らしいものによって装われた強固な官僚裁判制度としてでき上がっている」(織田信夫「裁判員制度はなぜ続く」)のである。
こうした体質に本来、真っ先に反応し、批判する側に立っていい日弁連は、一貫して賛成の旗を振ってきた。陪審制導入を掲げてきた日弁連は、司法制度改革審議会の論議で実質的な導入の芽を断たれながらも、裁判員制度という全く異なる制度を、陪審制度への「一里塚」とすることで、望みをつなぐ姿勢をとったように見える。日弁連がこの制度を批判できない、しない要は、この経緯と前記「風穴論」ではないだろうか。しかし、この姿勢は、もはや市民の意思にも、あるべき刑事裁判にも背を向けるものになりかねない。裁判員制度によって、むしろ陪審制度は、ほぼ絶望という見方も弁護士間からは聞こえてくる。
「市民の皆様にとっても重要なこと」「市民の皆様が参加する刑事裁判が定着すると確信」と、日弁連会長が言い切って始まった裁判員制度が、この9年間でどういう結果を出したのか、そして、それがなぜ、止まらないのかを、今こそ、直視すべきときである。
参考・「裁判員裁判の実施状況について(制度施行~平成30年3月末・速報)」(最高裁)
「弁護士白書 2017年版」(日弁連)